ぼくが真夏の嵐山駅に着いたのは、昼下がりの午後1時だった。
「橘さんですか?」
銀縁メガネをかけた紳士が笑顔で声を掛けて来た。
「はい、そうですが」
「お迎えに上がりました。わたくし、君澤家の顧問弁護士をしております冴島と申します」
快活な若者である。その場で名刺交換となった。名刺には『弁護士 冴島等』と書かれていた。なるほど、この若さで彼女の家の顧問弁護士なのだな。
「橘探偵事務所・・・・・・探偵さんでいらっしゃいますか。奥様の学生時代のご友人だとか・・・」
冴島はぼくの名刺を興味深げに見入っている。蝉がひっきりなしに鳴いていた。
「この度はご不幸があったそうで」
「はい。突然でした」冴島は悲しそうに顔をしかめた。「ご主人さまがお亡くなりになりまして」
「ご病気とうかがいましたが」
「急性脳溢血でした」
「そうですか。綾さんもさぞや気を落としていることでしょうね」
「それはもう・・・・・・。それでは参りましょう」
わたしは冴島の運転で君澤邸に向かった。渡月橋を車で渡る。嵐山の緑が壮観だ。遠くにこんもりとお椀型の小倉山も見えた。昔ながらの風情のある嵯峨野の街をゆっくり車が通り抜けて行く。車のクーラーがようやく効きはじめてきた。
「なぜぼくが呼ばれたのでしょう」
「さあ、それは存知あげません。奥様は今回莫大な遺産を相続することになりましたが、それについて何か心配事があるのかもしれません」
「心配事と言いますと?」
「後でお話ししますが、どうも前妻の息子さんと折り合いが悪いらしいのです」
「前妻の息子さんですか」
「君澤二郎さんです。この街の消防署にお勤めです」
車は山すそから庭園に入って行った。
「綺麗な庭園ですね」
「はい。ここが君澤家のお庭になります」
「え、これがですか」
そこにはまるで皇居のように広大な庭が続いているのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「どうぞこちらです。ご主人さまが亡くなられてもうひと月になります。葬儀が終わり、後片付けも一通り済みましたので女中にはしばらく暇を取らせました」
冴島から案内されて、君澤邸に入った。
「こちらの応接間で少々お待ちください。いま奥様にお声を掛けて来ますので」
ぼくは年代物のソファーに腰かけた。分厚い絨毯の中央に彫刻をほどこされた重厚なテーブルがある。壁には油絵の風景画が飾りつけられてあった。天井にはシャンデリアが輝いている。
その時廊下の奥から冴島の声が聞こえて来た。
「奥様!奥様!どうなさいました。ここをお開けください!」
ぼくはすぐさま廊下に出た。すると突きあたりの部屋で冴島がドアを叩いている姿が目に入った。
「どうなさいました?」
「奥様にお声をおかけしたのですが、お返事がないのです。しかもドアに鍵を掛けられているらしく」
冴島がドアノブを激しく前後に動かしている。しかしドアはビクともしないようだった。ぼくは嫌な臭いを察知した。
「ガスだ。合鍵はありますか」
「いいえ、ございません。こうなれば、ドアをぶち破るしかないでしょう」
冴島はドアに体当たりを始めた。ぼくも加勢した。3度目あたりからようやくドアが軋みはじめた。
「ちょっとどいてください」
ぼくは冴島を下がらせて、渾身の後ろ回し蹴りをドアに叩きつけた。ぼくは空手の有段者なのだ。
ドアは音を立てて外れた。外れたドアの向こうの床に、血だまりの中に綾子がうつ伏せで倒れている姿が目に入った。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
君澤邸に京都府警のたくさんのパトカーが集まってきていた。
「この状況からすると、自殺と他殺の線が浮かびあがりますが、冴島先生はどうお考えですか」
刑事が弁護士に訊ねている。
「さあ・・・・・・わたしからはなんとも。ただ鍵が掛けられていたことだけは確かです。鍵は家族しか持っていないはずです」
「今日の正午から午後一時半の間はどちらにいらっしゃいましたか」
「橘さんをお迎えに車で駅まで行っていました」
刑事と弁護士がぼくを見た。
「あなたは東京から来た探偵さんだそうですね。なぜここに居合わせたのです?」
刑事が鋭い視線をぼくに向けた。
「被害者から呼ばれたので」
「なぜです」
ぼくは首を振った。「わかりません。ひょっとして今日の事と関わり合いがあるのかもしれませんが」
刑事は肩をすくめた。そこへ警官に連れられて若い男が現れた。
「冴島さん。本当に義母が亡くなったのですか」
冴島が君澤二郎の肩に手を置いて頷いた。
刑事がふたりの視線を遮って訊いた。「君澤二郎さんですね。あなた、正午から午後一時半までの間どちらにいらっしゃいましたか」
「大阪で映画を観ていました。今日は非番でしたので」
「それを証明してくれる人はいますか」
「売店の女性が覚えていてくれていればいいのですが。これが映画の半券です」
体格のいい二郎が映画の切符を刑事に見せた。たしかに、大阪から嵐山では距離があり過ぎる。チケットを購入後に彼女を殺害して、映画館に戻るのは不可能だろう・・・・・・。
ぼくは鑑識の隣で元カノの遺体に注目していた。
「刑事さん」
「なんですか。探偵だからってあまり捜査に首を突っ込まないでくださいよ」
「さっきから気になっていたんですが、彼女はなぜ下駄を握っているんでしょうか」
綾子は伸ばした右手になぜか下駄を持って倒れていたのだ。
「暴漢に刺される前に下駄で抵抗したとも考えられますな。まあ、密室でなければの話ですがね」
「この部屋に複数のカセットボンベのガスが充満していましたよね」
「それも自殺とも取れるのですよ。あの窓辺に大きな虫眼鏡が立てかけられているでしょう」
たしかに出窓の黒い布の上に、虫眼鏡が立てかけられている。
「この部屋は西側を向いていますから、西日があの虫眼鏡に当たると、最後には黒い布に光の焦点が集中して発火するようにしてあったのです」
そのとき鑑識から声が掛かった。「ご遺体を移動してよろしいですか」
刑事はOKというように手を振った。刑事が近づいてきた。
「橘さん。大きな声では言えませんがね、あの二郎という義理の息子、どうも被害者と折り合いが悪かったそうです。彼にこの犯行を実行する方法があると思いますか」
ぼくはあいまいな微笑を浮かべた。
「ところで刑事さん。あれは?」
綾子が運ばれた後の、血だまりの先に二本の線がくっきりと浮かんでいたのだ。彼女は死ぬ前に、自分の血を使ってスタンプのように下駄の歯を絨毯に押し付けたのであろう。
「これは一種のダイイング・メッセージじゃありませんかね」冴島が言った。
「確かに漢字の二に読めますな・・・・・・」刑事が言った。
「ちょっと、ぼくじゃない。犯行時間にぼくは大阪にいたんだ!」
君澤二郎が青い顔をして弁解した。
「たしかに二郎さんが犯行を実行する方法はあります」
ぼくはにこやかに言った。
「どんな方法です?」刑事が言った。
「二郎さんは消防署員でしたよね。救急車か消防車を使用すればその時間内に移動ができるでしょう」
「さすがは探偵だ。すごい推理じゃないか」冴島が驚いた顔をする。
「でも今回は二郎さんの犯行ではないようです」
「どういうことですか」今度は刑事が驚いた顔をする。
「あのダイイング・メッセージですが、二郎さんの二ではありません。あれは英語のイコール、つまり“
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
冴島弁護士は以前から綾子に好意を抱いていたそうだ。主人亡き後、求愛をしたが断られ、カッとなって犯行におよんだらしい。
彼女の部屋には最初から鍵など掛けられてなどいなかった。さも鍵が掛けられているように演技をしていただけなのだ。冴島は綾子のダイイング・メッセージを観て、とっさに二郎に罪をなすりつける計画を思いついたのだった。
ぼくはその日、渡月橋を歩いて駅に向かった。夏の日が暮れて、嵐山が狂ったように風に揺れている。
どこか遠くでカランコロンと下駄の音がした。