目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報
望遠鏡の女

「おや、あれは」

 おれはその日、先日盗みに入った家でいただいた望遠鏡をのぞいていた。それは古風な造りの望遠鏡で、なにか価値があるように思えて金品と一緒に勝手に拝借してきたのだ。

 試しにマンションの3階の窓から、望遠鏡で向かいの市営住宅を覗いてみたのである。

 夕方だからどこの部屋も夕飯の支度で忙しいらしく、主婦がキッチンでなにやら料理をしている姿ばかりが目に入ってきた。その中のひとりに、飛び切りの美人がレンズの中に映った。そしてその美人の背後でなにやらしゃべっている男がいる。

「お、あれは・・・・・・」

 そこに映っていたのは、以前おれを逮捕して留置場にぶち込んだ刑事だったのだ。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「辰さんの奥さんは超美人だそうですね」と若い岡本とが言う。

 二人の男が歩いている。

「ああ。だが以前、辰のやつが検挙した女スリなんだけどな」と年配の刑事が答えた。「間違ってもこの話は本人の前では言うなよ」

「え、そうなんですか。気をつけます」岡本が驚いた顔をする。「でも、ひと山終えて、こうやって夕食に呼んでくれるなんて、辰さんはアットホームな家庭を築かれたのですね」

「まったくだ。うらやましい限りだよ。岡本も、どうせ捕まえるならああいういい女にしろよ」

「米さん。捕まえる意味が違いますけど」

「どっちも変わらねえよ。おれ達刑事にとっちゃ、一生心に残ることだ。お、着いたぞ。あそこの3階の角部屋が辰さんの家だ」

「楽しみですね」岡本が微笑んだ。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 刑事と女は何か言い争っているようだ。

 刑事が女を背にして冷蔵庫の前で屈んだ。ビールでも出すつもりなのだろう。その時、女が何かを両手に持ち、刑事の後頭部に向かって振り下ろした。刑事は右手を伸ばしたまま崩れ落ちて行った。女はトドメを刺すように、二度三度と刑事の後頭部めがけて何かを叩きつけた。刑事はまったく動かなくなった。

 ふいに女が振り向くと、窓に向かって歩いて来てあたりを伺うように視線を走らせる。そしてなんと一瞬おれと目が合ってしまったのだ。女の鋭い視線が、レンズを通しておれの片目に突き刺さる。おれは思わずのけぞっていた。女の部屋のカーテンが思い切り閉められた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 呼び鈴が鳴った。

「はあい」にこやかな女の声が返って来て鉄製のドアが開いた。「いらっしゃい」エプロン姿の艶子つやこが笑顔で出迎えてくれた。

「どうも奥さん」米さんが深々と頭を下げる。「今日はお招きに預かりましてありがとうございます」

「あら、かたいご挨拶は抜きにして、どうぞお上がりになって」

「おじゃまします」米さんと岡本が会釈をして入っていった。「辰さんは?」

「主人は今、ちょっと買い物に出かけていて」

「そうですか。すみません、ご主人のお留守にお邪魔したりして」

「いいんですよ。すぐに戻るから先にやっててくれって言ってましたから」

 キッチンからいい匂いが漂ってくる。

「すき焼きですか」思わず若い岡本がつばを飲み込む。

「お口に合いますかどうか・・・・・・」

 艶子はリビングに二人を通した。「どうぞ座っていてください。いまビールをお持ちしますから」

「どうかお構いなく」と米さんが言った。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「見られたか」

 おれは望遠鏡をテーブルに置いた。心臓がドキドキ脈を打っていた。荒くなった呼吸を整える。

 どうする?あの刑事は息絶えたかもしれない。放っておくか。でもあの女に顔を見られたかも・・・・・・。いやこっちは望遠鏡だ。しかも夕闇だ。

 あの刑事になにか恩でも受けたのか?受けた・・・・・・確かに受けた。あの刑事は更生するように便宜を図ってくれた。いままでにあんな親身に考えてくれる刑事はいなかった。今ならまだ間に合うかもしれない。

 くそ!匿名で通報するだけなら・・・・・・。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「これはまたいい肉ですな」米さんが赤い顔をして歓喜の声を上げる。ビールで酔っているのである。

「それにこの豆腐がまたいい」

 岡本も食べ盛りの学生のように箸が止まらない。

「おい岡本。そんなにがっつくな。辰さんの分がなくなるぞ」と米さんが岡本をたしなめる。

「それにしても辰さん遅いですね」岡本が肉を頬張りながら言う。

「だいじょうぶですよ」艶子が微笑む「主人の分はちゃんと取ってありますから、ぞんぶんに召し上がってくださいな」

 そういうと、艶子は米さんと岡本にビールを注ぎ足した。

「申し訳ありませんな。こういう仕事をしていると、普段ろくな物を食べてないんで。とくにこいつは」と米さんは岡本を指さした。

「ほんと、張り込みのときにはパンと牛乳ばっかりですからねえ」と、岡本は笑った。

 ほぼ鍋が空になった頃である。突然米さんの携帯電話の着信音が鳴りだした。

「失礼」

 米さんが携帯を持って玄関に移動する。

「はい。え?いま辰さんの家ですけど・・・・・・。そんなまさか」

「どうしました」

 岡本が心配そうに声をかけてきた。

「奥さん。この家、ちょっと調べさせていただけますか?」

 艶子の表情が消えた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 私服警察官に両腕を拘束された女が連行される姿が見える。市営住宅の薄暗い壁は、何台ものパトカーや救急車の赤色灯の点滅で赤黒く染まっていた。

 覆面パトカーの後部座席に乗せられそうになった女の美しい顔が一瞬おれを仰ぎ見た。「覚えていろよ」女の眼がそう言ったように見えた。

 おれは望遠鏡を降ろして、そそくさと引越しの準備を始めた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「米さん。風呂場に辰さんの遺体が隠してあったなんて・・・・・・」岡本が青い顔をする。「そんなことも知らないでご馳走を食べていたぼくたちはどうなるんでしょうか」

「岡本・・・・・・おれたちは知らなかったんだ。処罰はあるまい」米さんは腕を組んで天井を仰いだ。「しかしどうして凶器がみつからないんだ?角ばった鈍器のようなものがあるはずだろう」

「窓から煉瓦を捨てるなんてできませんよね。その時間ぼくたちが下を歩いていたんだから」

「お前、何か気がつかなかったか?」

「いえ、とくに。やけに豆腐が多いすき焼きだとは思いましたけど・・・・・・まさか」

「あの豆腐、おれたちが食う前はカチカチに氷っていたのか!全部食っちまったぞ」

「ぼくたちは証拠隠滅のために利用されたってことですか」

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?