プリモ大司教と言えば世間では聖人君子だと謳われている。そんなプリモ大司教は私達聖女にとって、父のような、母のような存在だ。実際、
だから、プリモ大司教がこんな反応を示すなんて想像もしていなかったのだ。
「ステファニア」
「は、はい」
名前を呼ばれただけなのに身体がビクリと震える。どうしよう、プリモ大司教の目を真っすぐに見れない。いつもと同じ笑みのように見えて……目だけが笑っていないせいで余計に怖い。
そんなステファニアの動揺が伝わったのか、プリモ大司教の声色が一際優しくなった。
「今日はもう疲れたでしょう。このまま上がっていいですよ。それと、明日は一日休みにしますので、好きに過ごしてください」
「いい、あ、ありがとうございます」
危ない。思わず「いいんですか?」と聞きそうになった。これ以上話を長引かせるのは良くない気がする。プリモ大司教の心遣いに感謝し、挨拶を交わすとそそくさと自室へと逃げ込んだ。
◇
「ロザンナ」
「はい」
「レターセットを持ってきてくれる? 緊急連絡用の方ね」
「承知しました」
気は重いがステファニアの生家であるエンリーチ家へ手紙を書かねばならない。こういう連絡は早ければ早い方がいい。プリモ大司教が根回しをしてくれるだろうが、諸々の申請やシッキターノ家との今後についての話し合いは両親に動いてもらうしかないのだから。
――――お母様とお父様はさぞびっくりするでしょうね。任期中の娘から手紙が届くなんて思ってもいないでしょうから。しかもその内容が婚約破棄だなんて……
聖女の任期は十二歳から二十歳まで。その間、聖女は家名を捨て、
尚、今回の
――――筆頭聖女でいながら婚約者の一人も繋ぎとめておけないなんて……と呆れるかしら? それとも、今更面倒事を起こすなと怒る? それとも……
もう何年も会っていない両親がどんな反応を示すかわからなくて不安が募る。でも、連絡しないわけにはいかない。
「ロザンナ」
「はい」
「これをお願いしても良い?」
「もちろんです」
何度も書き直した手紙は結局簡素な事務連絡のような内容になってしまった。ロザンナに手紙を託し、椅子に深く腰掛ける。
そして、軽くなった左腕を掲げ見つめた。そこにあったはずのモノはもうどこにもない。きっと、この世界のどこにも。外れたブレスレットは一応回収しておいたはずなのだが、いつの間にか消えてしまっていた。そういう仕様なのだろう。聖女の契りを結んだ時もそうだった。いつの間にか現れ、いつの間にか消えた。
「戻りました」
「早かったわね。お帰りなさい」
「すぐに連絡係を見つけることができたので。今晩中には届けることができると思う、とのことです」
「そう。よかった。……ねえロザンナ」
「はい」
戻ってきたばかりのロザンナを手招きして近くに呼び寄せる。ロザンナは首を傾げながらも小声で会話ができるところまで身を寄せてくれた。
「実はね、明日一日プリモ大司教から休暇をいただいたの。だから、明日は久々にお忍びで王都を回ろうと思っているのだけど……ロザンナはどうする? 一緒に来る? せっかくの休暇だから休んでもい」
「もちろんお供します」
「そ、そう」
食い気味に返されてしまった。でも、よかった。一人よりもロザンナと一緒の方が楽しいに決まっている。
ルカとの逢瀬が減ってからの数年間。余計なことを考えたくなくてひたすら働き続けた。その間に王都も色々変わった。どこが変わったのか一応知ってはいるが、ほぼ初見のようなものだ。行きたいところがたくさんある。
「今日はもうロザンナも休んでちょうだい。明日は朝からでかけるつもりだから」
「いえ、私は大丈夫です」
「ダメよ。私も後は汗を流して寝るだけだから。……それともたまには一緒にお風呂に入る?」
「は?! いえ、それはあのっ」
珍しく狼狽えるロザンナ。結局、ロザンナはステファニアに丸め込まれる形で自室へと戻って行ったのだった。
◇
翌朝、自然光によって目が覚めた。いつもより陽の光が眩しく感じる。慌てて上半身を起こした。そして、今日は休みだということを思い出して安堵する。
ベッドから抜けだし、お気に入りの服をクローゼットから引っ張り出した。白のワンピース。お気に入りといいながらこのワンピースを着るのはまだ数回目だ。着た後、一度鏡の前でくるりと回り、全身を確認した。白だから、汚れがあったら目立ってしまう。大丈夫そうでほっとした。
いつも被っているヴェールは今日は無し。代わりにハンチング帽を被る。目立つ銀髪は帽子の中に押し……こめない。不器用ながらも奮闘していると背後から「あ」という声が聞こえてきた。
振り向けばロザンナがいた。
「いいところにきたわね。手伝ってくれる?」
「はい」
無駄に長い髪をロザンナの手を借りながらなんとかハンチング帽子の中にしまう。帽子の下から覗く瞳でバレないか気になりはするが、俯いていれば大丈夫だろう。そうまじまじと覗いてくる人はいないはず。改めて姿見で己の恰好を確認する。――――うん。いい感じ。いつもの姿と比べたら別人だわ。
ふと、鏡越しにロザンナの服装が目に入った。
清潔な白のシャツに、細身の黒のズボン。一応、変装の為なのか眼鏡をかけている。シンプルな装いだが、だからこそ素材の良さが際立っていた。
「準備は以上ですか?」
「あ、うん」
ロザンナに目を奪われている間に、服装に合わせて用意していた鞄を奪われてしまった。
「って、今日はそういうのはしなくていいのよ?! 鞄を返してちょうだい。自分で持つから」
「いいえ。私が持ちたいのです。仕事だからしているわけではないので気にしないでください」
「そ、そうなの?」
そこまではっきりと言われてしまえば、受け入れるしかない。
「なら、甘えさせてもらうわね」
「はい」
ロザンナが手配してくれたのか、教会を出てすぐのところで馬車が待っていた。御者はいつもの人だ。
「今日はたくさん回るつもりだからよろしくね」
「任せてください! それでまずはどちらまで?」
「まずは……朝市に!」
朝市で店を出しているという女性から聞いたことがある。朝市は活気がすごいらしいのだ。それに新鮮で美味しいものがたくさんあるという。ぜひとも食べてみたい。
「すみません。ここから先は馬車禁止区間なので歩きになります」
「大丈夫よ。じゃあ、一時間くらいしたら戻るわね」
「はい。ここで待っていますので私のことは気にせずゆっくり楽しんできてください」
「ありがとう。ロザンナ行きましょう」
「はい」
まだ早い時間だというのに人がたくさんいる。聞いていた通り活気に満ちている。「わぁ」と口から感嘆の声が漏れた。
「ステファニア様、はぐれないようにお手を」
「ええ」
差し出された手を握り、歩き始める。人はたくさんいるが、ロザンナが先陣を切って歩いてくれているおかげで人とぶつかることなく進めている。
「朝食はまだですよね?」
「ええ」
「それでは、あちらで食べたい物をまとめて買って一旦馬車に戻りましょう」
ロザンナが示した先にはフレッシュジュースや肉串、魚串、パンとすぐにでも食べられそうな屋台が並んでいた。激しく頷き返す。
ひとまず一番近い屋台に並んだ。すぐに支払いができるようにと鞄に手を伸ばしたが、ロザンナに片手で制された。
「プリモ大司教から特別手当を預かっていますので、支払いはそこから」
そう言いながらロザンナは己のシャツの胸元に手をつっこみ、紐付き財布を取り出した。子供が首からぶらさげているアレだ。ステファニアは目を瞬かせた。クールなロザンナの胸元から可愛らしい財布が出てきて驚いたからではない。その財布に見覚えがあったからだ。
「それって……」
「はい。七年前、ステファニア様からいただいたものです」
目を細め微笑むロザンナ。その財布はステファニアにとっても特別な物だったからよく覚えている。まだステファニア・エンリーチだった頃に両親から買ってもらったものだ。
――――確か……辞める辞めないでロザンナが騎士団と口論しているところに出くわしたのよね。それで、あの財布を強引にロザンナに渡してその場で私の護衛騎士として雇ったのだわ。今考えれば無茶な話だったわよね。財布の中にはたいした金額は入っていなかったはずだもの。それなのに、私についてきてくれて……その後専属聖騎士にまでなってくれるなんて……。
「大事にしてくれていたのね。嬉しいわ……でも、後で新しいものを買いに行きましょう。プレゼントするから」
「いいえ。お気遣いなく。私はこれで十分なので」
「そうじゃないわ。私
「そういうことでしたら……」
「ここらへんに売っているところあったかしら?」
「いえ、なかったかと」
「なら、別のところに行きましょうか。時間はたっぷりあるんだし」
「そうですね」
会話しながら、お目当てのものを次々に購入していく。全て買い終わり、馬車へと戻る。思ったよりも早かったのか、御者が咥えていたタバコを慌てて消した。
「あら、気にしないでよかったのに」
「そんなわけにはいきませんよ。ステファニア様に煙を吸わせでもしたら私はロザンナ卿の剣の錆にされてしまいますから」
まさかそんな大袈裟なと笑ってロザンナを見たが、ロザンナは当たり前だろうという顔で頷いていたので笑うのをやめる。
かわりに持っていた袋から二種類の串を取り出して御者に差し出した。
「馬車の中で食べようと思って買ってきたの。コレはあなたの分よ」
「おお! 私の分まで! ありがとうございます。ジュースまで!」
御者がいい反応で喜ぶのでなんだか私まで嬉しくなった。
馬車の中に乗り込み、さっそく肉串を手にする。初めて食べるからか何だかドキドキしてきた。ロザンナを見ると、大きな口でかぷりとかぶりついている。――――なるほど、ああやって食べればいいのね。
真似をして噛みついた。かたい……と思っていたけれど思っていたよりも柔らかい。ただ、味は濃い。濃いけれど美味しい。癖になる味付けだ。
「ステファニア様、飲み物もどうぞ」
「ありがとう」
絶妙なタイミングで差し出され、口をつける。一気に口の中がフルーツの甘さと酸味でいっぱいになった。なんだか、今度はしょっぱいものが欲しくなってきて魚の串焼きに手を伸ばす。買ってきた食べ物はあっという間に無くなってしまった。
こんなに食べたのは初めてかもしれない、と膨れた下腹部を撫でながら息を吐く。
「ちょっと、すぐにはうごけそうにないわ」
「大丈夫ですよ。お腹が落ち着いてから移動しましょう」
「そうね」
ステファニアのお腹と相談しながら次の場所へと向かう。次の目的地は服屋だ。
「ここが今若者の間で流行っている服屋ね!」
馬車から降りたステファニアはとうてい若者とは思えない発言をしながら、店の看板を見上げた。意気揚々として入ろうとして足を止める。興味本位できたものの自分がここに入っても大丈夫だろうかと不安になったのだ。そんなステファニアの心境を悟ったのか、ロザンナがまたもや手を差し出した。エスコートしながら耳元で囁く。
「大丈夫ですよ。事前に予約をして人払いはすませていますから」
いったいいつの間に。出来過ぎな専属聖騎士に今日も驚かされっぱなしだ。
ロザンナに扉を開けてもらい中に入る。店主らしき人物が一人で待っていた。まさか一人で切り盛りしているのだろうか。いや、店の規模的にそれはないだろう。しかし、店内を見回したが店主以外は見当たらない。人払いの中にスタッフも含まれていたということか。
「おまちしておりました」と頭を下げる店主。ステファニアは「今日はよろしくお願いしますね」と挨拶を返した。
最先端な店の店主は独創的な装いをしているものと勝手に想像していたが、実際は無地のシャツにパンツというロザンナに似通ったシンプルな装いだった。後で店主から聞いた話だが、その装いにも意味はあるらしい。華やかな服装はプライベートで、仕事では動きやすいシンプルなものをというのが店主なりのこだわりなんだとか。
服屋ではたっぷり三時間かけて、ステファニアとロザンナの服をオーダーメイドしてから店を出た。元々は既製品を買うつもりだったのが、いつの間にかオーダーメイドをすることになり、そこから各々の主張がぶつかりあい、結果として全員が満足する完璧なデザインが仕上がった。完成品が届くのが本当に楽しみだ。
「さて、次はロザンナの新しい財布を買いに行きましょう~」
「本当に行くんですか? 別日でも大丈夫ですよ?」
「ダーメ。出してちょうだい」
渋るロザンナを無視して、御者に頼む。御者は心得ていたようにすぐに馬車を出発させた。
「牛革を扱っている店なんですけど、長持ちする財布ならここがオススメですよ」
「ありがとう」
「いえ、ごゆっくり~」
そう言いながら御者はさっそくタバコを取り出している。吸い終わるまでは帰ってこなくていいということだろう。思わず笑ってしまった。
勝手に牛革専門店かと思っていたが、雑貨店だったらしい。店内には牛革以外のアイテムもたくさん並んでいる。目移りするが、ひとまず財布コーナーへと向かった。
「ここらへんがよさそうね」
上質な牛革で出来たシンプルなデザインの二つ折り財布。収納力もあり、実用性も高そうだ。何より、色味がロザンナの髪色と似ているのがいい。
「……その顔はあまりピンときてないわね?」
「いえ、そんなことはありません。ステファニア様が選んでくれたものなら何でもいいですから」
それはそれでどうなのか、と顔を顰める。けれど、これよりも似合いそうなものは見当たらない。
「ロザンナがいいと思ったものはないの? 値段は気にしないでいいから」
「いいと思ったものですか? それでしたら……先程の財布にコレをつけてもいいですか?」
ロザンナが示したのは銀細工のトップがついているストラップ。
「いいわよ」
何故か訳知り顔になっている店主を呼び、プレゼント用に包んでもらう。
「後は受け取るだけですから先に馬車で待っていても大丈夫ですよ」
「でも」
「足、痛いんじゃないですか?」
指摘され黙る。図星だった。久しぶりに長時間歩いたせいもあるが、履きなれない靴というのが一番の原因だろう。
「じゃあ、お言葉に甘えて先に戻っているわね」
「はい」
店を出れば、すぐに御者が気づいてくれた。事情を伝え、馬車の中で待つ。その間、はしたないけれど靴を脱いでいた。おかげで少し痛みは治まった気がする。
ロザンナが二つの箱を抱えて戻ってきた。なぜ二つ?と首をかしげると小さな長方形の箱の方を差し出してきた。反射的に受け取る。
「これは?」
「私からのお返しです」
「ええ? ……開けてみてもいいかしら?」
「もちろんです」
箱を開けると中から先程のと同じ、否、トップの形が違うストラップが出てきた。ちょっと自分でも欲しいなと思っていたのがバレていたのだろうか。どちらにしても嬉しい。さっそく、財布につけてみる。黒の財布に銀がよく映える。嬉しくなって財布を掲げた。
「ロザンナありがとう!」
「いいえ」
微笑みあう二人。馬車の外で二人の会話を聞いていた御者は微笑ましい空気を感じながら最後の一口を美味しそうに吸い込んだ。吸い込み過ぎて「あっつ」と声を漏らしてしまったのはご愛敬。
一日王都巡りを満喫したステファニアは教会の皆にお土産を買ってから帰宅した。皆に渡して回る。皆、ステファニアの顔を見て、それから嬉しそうに受け取ってくれた。昨日からずっと心配してくれていたのだろう。
その日は、心地よい疲労感とともに夢を見ることもなく熟睡できた。