「……男爵様、気を張らずとも大丈夫ですのに」
「あはは。大丈夫」
「……先ほども同じようなことおっしゃってますが?貧乏ゆすりされてますよ?」
「あ……お、おかしいなぁぁ。よし、これで大丈夫」
「額の汗が……よろしければ」
「……ありがとう」
落ち着きのなく、そわそわとする三十路間近の男に。ハンカチを手渡す成人したばかりの美しい女性。
このぎこちない会話は王宮に勤める、中央貴族が住まう、屋敷が並び立つ王都中央の貴族街で聞こえた。馬車内で男女、シュバインとイザベルのものだった。シュバインはきっちりとした礼服を、イザベルは飾り気のないクリームベージュのシンプルなドレスに身を包んでいる。
なぜ二人がぎこちない会話をするのか、それは二人の行先に理由があった。
一難去ってまた一難。宿屋を経ってから、落ち着きのないシュバインにイザベルは頭を抱えていた。
リヒトの断罪から数日後、二人はフィスターニス公爵邸へ向かっていた。
春に比べ気温が日に日に高くなりつつある。ひと際賑わうシュタールブルグ王国の商店街は気温とは関係なく賑わう。人が密集し、外気温はさらに高くなる。変化したことといえば、服装が薄手になっていること、水を撒き地面の表面温度を下げているシーンも見受けられること。
商店街に並ぶ品も、夏に向けての商品も棚に陳列され、人々の意識も夏に向かっていた。
そんな活気溢れる商店街に比べ、静かな貴族街に一台の馬車がガタゴトと小さな音を立て進む。人気のない街道に音が響く。
馬車には、シュバインとイザベルが乗っていた。
雰囲気は初々しい雰囲気はなく、緊張がひしひしと伝わる。シュバインの呼吸は少し荒く、頻繁に深呼吸を繰り返す。額からは汗が垂れていた。
イザベルが差し出したハンカチはすでに湿っていて、どれほど汗をかいていたのか見て取れる。
「男爵様、出発時より緊張されていますが、何をそんなに気にされているのでしょうか?
「……あははぁ。緊張してないように振る舞ってはいるんだけどね」
「明らかに挙動不審ですわ。誰にでもわかるかと」
呆れ顔でいるイザベル。取り繕えていないシュバインは、顔に何かありますと出てしまっている。
イザベルが気になっているのはこんなに緊張している理由だろう。少し睨み目で見られているところから察するに理由を話してほしいと訴えている。シュバインは語ることにした。
「僕、公爵様の下で文官してた時、厳しく指導されることが多くてね。とても可愛がられていたんだ」
「それは、よかったのではありませんの?」
「もちろん、おかげで今の僕があるしね。ただ、文官として働いているとき、職場に向かうとき、常に気を引き締めていた」
「ミスが許されませんものね。緊張感を持つのは悪いことではありませんね。もしかして、昔は今の男爵様と同じような状態で出勤されていたのですか?」
「いやいや、気を引き締めていただけで、ここまでは緊張しないよ」
「ええと、つまり、原因は何なのでしょうか?」
昔の話をされて、余計わからなくなったイザベル。これも緊張の影響か、話の順序がおかしい。シュバイン自身も、指摘され気が付く。
「多分、昔の名残で心と体が仕事モードになっているんだと思う。久々にこの状態になったせいで緊張だけしてるのかな」
「……大変ですわね」
「かっこ悪いところを見せてしまったね。面目ない」
原因がわかって、すっきりしたが、どのような反応をすればよいか悩んだイザベルは労いの言葉を。醜態をさらしてしまったと考えたシュバインは苦笑いを浮かべる。
「……ふふ、これでは立場が逆ですわね」
「イザベル様?」
イザベルはシュバインの姿を見て懐かしむように微笑む。
「先日のパーティでは、頼もしかった男爵様はどこに行ってしまわれたのでしょうね」
「頼もしいだなんて、僕はそんな大層な人間じゃないよ」
「いえ、男爵様は凛々しかったですわ。ですが、今の姿を見て、少し近しいものも感じました」
「い、イザベル様?」
イザベルはゆっくりと手を伸ばし、シュバインの手を包み込むように両手で掴む。
急な出来事にシュバインは目を白黒とする。
「……少しは落ち着かれましたか?」
その声音は少し低いものの、優しい声であった。シュバインを安心させるためのイザベルなりの精一杯。
以前に比べ、今のシュバインは小さく見えた。
頼もしかった姿は今はない。だが、なぜだか、親近感がわく。弱気の自分と似通った部分があったのかもしれない。
助けになりたい、今度は自分が助ける番。イザベルはそう考えていた。
「……本当にこれって落ち着くよね」
「よかったですわね」
「イザベル様のおかげだね」
「そんなことございませんわ。ただ、男爵様がしてくださったことをわたくしがしているだけのこと」
シュバインはイザベルの両手で包まれた手をさわさわと動かし、大きく息を吸う。
次第に落ち着きが見え始めた。
イザベルは安心したのだった。イザベルは表情が柔らかくなったシュバインを見つめる。
「男爵様、わたくしはまだ頼りないですわ」
シュバインはそんなことはない、と否定しようとするがしなかった。今のイザベルの瞳には真剣みが伝わってきたから。
これは彼女なりの決意表明なのだと察した。
「これから、男爵様の隣で支えます。わたくしは男爵様にもらってばかりで何もお返しできておりません。だから、どんなことにも力になります。わたくしをもっと頼ってください」
「……イザベル様。……わかりました。今度から何かあったらイザベル様にすぐ相談しますね」
「うふふ。わたくし、精一杯努力しまわね」
二人はお互い両手を取り合う。
見つめあった二人はお互い視線を外さずにいた。
ーーガタン
「大丈夫ですか!申し訳ありません!段差で大きく揺れてしまいました!」
「だ、大丈夫だよ!」
「問題ございません!」
場所が大きく揺れたことで二人はハッとなり、我に戻る。
イザベルの行動の結果、シュバインは膠着するほどの緊張からも解放されることができたのだった。
それから数分後、フィスターニス公爵邸に到着した。