その日、イザベル゠フィスターニスは全てを失った。
『殿下!何故わかってくださらないのですか!貴方は国王となるお方!その隣に立つに相応しいのはこのわたくしです!』
その言葉は時を遡り、貴族学院の卒業パーティーでの一件。
精神的に追い詰められ心身ともに疲弊していた、イザベル゠フィスターニスが王太子のリヒト゠シュタールブルクに発言した最後の言葉であった。
イザベルの心からの叫び。
だが、リヒトに届くことはなく煙たがられるだけであった。
その言葉を最後に、イザベルは奈落の底へ落ちたと錯覚する。
今まで築き上げてきた巨城の土台が、容易く信頼も功績も全てが崩れる。
幼少期から品行方正で文武両道、貴族令嬢のお手本のような評価は地の底をついた。
いちばん近くで自分を持て囃す、味方だと言い続けてくれた学友は離れていった。
いつも尽くしてきた愛すべきリヒトからは毛虫でも見るかのような目で見下された。
ーーわたくしはこの国のために。
ーーわたくしは何も間違ったことはしていない!
ーーわたくしは、殿下のためを想って!
ーーわたくしは……そこまで酷いことはしていない。そんなの知らない。
心当たりのない罪すら被せられた。
取り巻きたちが勝手にしていた嫌がらせ、それをイザベルが指示したと決めつけられた。
否定しても信用されず、無様を晒すなどと陰口を叩かれる。
パーティの会場にいる者全てが敵に回っている。
誰も手を差し伸べてくれない。
『貴様はブルーメを階段から突き落とそうとしたそうだな。これは殺人未遂、重罪だ。貴様にこの国の王妃はふさわしくない。国に残ることを許さん!2度と国土を踏めぬようにしてやる』
冤罪の殺人未遂が、それが決め手となった
あまりにも残酷な罰。
将来王妃になるべく知識はあれど、か弱き少女。
一人で身一つで暮らすのは無理である。
『わたくしは何も』
心からの叫びは誰にも届かない。この時、イザベルの心は壊れる寸前であった。
父親からは部屋に監禁するような形で待機を命じられた。
味方は誰もいない。助けを求めても意味がない。
そして、パーティから一週間後。突然リーヴ男爵家に嫁ぐように言われた。
『わたくしは……見放されたのですね。仕方ないですわよね。罪を犯したわたくしの価値などないですわよね』
出発の前夜、誰もいない自部屋でぽつりと呟く。静かに過ごす部屋では誰も反応することはない。
ーーわたくしは殿下を思って。
ーーわたくしはそんなことしておりません。
ーーわたくしは……わたくしは。
それは毎日のように反芻する夢。
悪夢と表すべきだろうか。
目を閉じると卒業パーティの出来事が昨日のように脳裏に過ぎる。
そんな日を過ごす中、まともに食事が取れないまますごす。
結果体は衰弱していった。
それでも人に悟られるわけにはいかない。
無理して胃に食事を通す。顔色や肌あれを化粧で誤魔化した。
シュバインに会う日もそうだった。
『お初にお目にかかります。シュバイン゠リーヴと申します。遠路はるばる王都からお越しいただきありがとうございます。疲れたでしょ?我が領は空気は常に新鮮で美味しい食べ物が自慢です。まずはお身体を休められてはいかがでしょう!』
『……お気遣い感謝致します』
初対面で歓迎されたことはイザベルにとって驚くべきことだった。だが、シュバインの身体を見て固唾を呑む。
ああ、この日、最悪の初夜を迎えるのだろうと。
嫁いだのだから当たり前だ。当たり前のことだが、それでも昔から思い描いた王子様との夢のような日々を思い返してしまった。
だが、この日精神よりも体が限界を迎える。
食事を無理をして飲み込めなくなってしまった。会話で表面を取り繕うことができなくなった。
だからこそ自暴自棄になってしまった。
前振りもなく部屋を訪れたシュバインに鋭利なものを構えようとして――夢はそこで覚めた。
万年筆を取ろうとした瞬間手が温かく感じた。だが、嫌な者ではなくむしろ安心した。
「……あ、あれ?」
そこまでの回想でイザベルは目を覚ます。
見知らぬ部屋、呼吸を荒げていたのか息切れしていたのを自覚した。
ゆっくりと起き上がると額からひんやりとするタオルが落ちる。
右腕には点滴が施されていた。
頭が少しジンジンする。
「……ああ。わたくしは発熱を」
ゆっくりを深呼吸する。
体は不調気味だが、数日前に比べれば改善されていた。
「はぁ……またご迷惑をおかけしてしまいましたね……あれ?」
少しずつ状況を認識している中、何故か左手が重い。温かい人肌も感じる。
「だ、……男爵様!」
「ん……うご!」
反射的……というより驚いたのだろう。左手をシュバインが両手で包み込むように握っていた。
彼女の声に驚き、背もたれについた時、椅子がミシリと嫌な音を立てたのはここだけの話。
また、驚いたのは椅子に座り頭をベッドに預け寝ていたからだろう。
「へ?!あれ。……あ、お加減はいかがですか?」
「……ご、ご心配をおかけしました」
シュバインは意識が覚醒して目が合うといちばんにイザベルの安否を確認する。
人の良さの表れだった。
イザベルは本気で心配してくれたことを嬉しくも思ったが、今はいちばん気になること。
「男爵様、何故わたくしの手を」
「いや!決して邪な考えがあったわけじゃなくて!ただ、相当うなされておりましたので、何かして差し上げられないかなと思い……昔母にやってもらったことを思い出して、僕自身落ち着いたというか、気分が和らいだからのでそれで!」
慌てて言い訳じみたことを言うが、イザベルはクスリと笑う。
会ってまだ数日と短い付き合いだが、寝込みを襲うような人物ではないとわかっていた。
本気で慌てるあたり心配してくれていたのだと、わかった。
イザベルはシュバインが落ち着いたタイミングでお礼を述べる。
「まずはおかけになってくださいませんか?男爵様が邪な気持ちできたのではないとわかっているつもりですもの」
「そ、そうですか。良かったです」
安心させるように微笑みかけるとシュバインは安堵していた。
彼は先ほどまで座っていた椅子に腰掛ける。
「わたくしを心配に思ってしてくださったのですよね」
「そうです。公爵様に誓って!」
「……そこは神にではなくて?」
「僕にとって崇拝すべき対象は公爵様なので」
「ふふ……なんですかそれは」
やはり話していて心が弾むなと、イザベルは内心思う。
シュバインは少し感性がズレているのか、会話ではおかしな発言をする。
常識に囚われない言葉。だが、他人に親切で人柄が良い。
それがイザベルが短い付き合いで感じたシュバインの人となりだった。
「……あの、大丈夫ですか?……手が震えておりますが」
「……あれ?」
イザベルはシュバインが心配そうに眺める視線の先を見る。
左手が無意識に震えていた。
先程までまた悪夢を見ていたからだろう。
「……すいません」
そう一言断りを入れるとシュバインはゆっくりとイザベルの手を両手で包む。
本来ならあったばかりの女性に対する距離感ではない。
だが、異性に関する常識や距離感のないシュバインはそれを悪気もなくする。
イザベル自身も悪い気ではなかった、むしろ震えが収まったのだ。
……ああ、何故だろう。居心地がいい。イザベルは徐々にイタズラな笑みになる。
「……突然異性の手を握るなんて、随分と積極的なのですね」
「え?!す、すいません!」
「……あ」
イザベルは悲しげに声を出す。
ちょっとした冗談を挟んだだけなのだが、シュバインは拒絶と受け取ってしまった。
気まずい。今後どうやって関われば良いだろか?
「……嫌ではありませんでしたのに」
「そ、そうですか」
イザベルはすぐに誤解を解く。
どこか恥ずかしそうにするシュバインだった。
気まずい雰囲気の中、イザベルは手の震えが収まっていることに気がつく。
「ありがとうございました男爵様。手を握っていただけたおかげで震えが止まりましたわ」
「……なら、よかったです」
少し気疲れしてしまったシュバインは拒絶されなかったことに、安心した。自身で振り返ると初対面の女性の手を握るなんて普通はしないよなと、やった後に気がついた。
「……一日中いてくださったのですか?」
イザベルはベッドの近くに水を絞るバケツが置かれたトレーが目に入る。他にも、水の入っているポットやりんごなど消化の良い果物もある。
寝る前にはこんなセットなかったような……。
起き上がった時冷たいタオルが載せられていたこと、寝ているシュバインの姿。
そこから連想した。
シュバインは少し苦笑いを浮かべる。
「……屋敷の者が変な気を回したのか、世話しろって言われたんですよ」
「使用人の方がですか?」
イザベルが驚いたのは普通、看病は屋敷の主人にやらせることではない。
「優秀で僕を慕わない生意気な補佐官がいるんです。その補佐官が僕の仕事は引き継いでおくからと」
「……そうなんですね」
イザベルは気を使ってくれたのだと察した。この屋敷において気を許しているものは現在シュバインだけ。そして、イザベル自身が夢にうなされていたことは公爵邸にいた時に侍女から心配されて知っていた。
「夜も遅いですし、もう少し寝てください。療養は大切ですからね」
シュバインは両手を軽くポンと叩き、イザベルを気遣う言葉をかける。
「……そうですわね。お言葉に甘えさせていただきます。その……」
「どうかされました?」
提案を了承したイザベルだったが、少し俯いてしまう。
様子の変化に心配するシュバイン。
「一つお願いがございます」
意を決したイザベルはまっすぐな視線を送る。
――この屋敷で自分に寄り添ってくれた彼。
――頼ってくれと言ってくれた彼。
――唯一安心させてくれる存在。
正直寝るのは怖い。目を瞑るとまた悪夢を見るかもしれないからと。
イザベルはゆっくりと左手を差し出す。
「わたくしが寝るまで……手を握ってくださいませんか?」
リーヴ男爵家に来て初めての我儘だった。その姿に頼られたことによる嬉しさが込み上げるシュバイン。
「もちろん。僕でよければ」
シュバインは即答だった。
初めて彼女が寄り添ってくれた。シュバインも彼女が前向きに元気になっていく姿が嬉しかったのだ。
――だが、その時……シュバインがイザベルの手に触れようとした瞬間だった。
ミシミシミシ!ガシャン!
「うわあぁ」
「男爵様!」
シュバインが座っていた椅子が崩れ落ちた。最後まで締まりの悪い。
だが、よく話が終わるまで持ち堪えたと椅子を褒めるべきだろうと思った。
シュバインは尻もちをつき、さすって痛がる。
「……大丈夫ですか?」
「あはは、どうにか。僕が重すぎて椅子壊れたみたいです」
「……ぶ!うふふふふ」
「アハハハ!」
耐えかねたのか二人は声を出して笑った。面白おかしい現状だった。シュバインは何かを持っているのかもしれない。
「……はぁ、はぁ。申し訳ありません」
「いえ、こんなん見たら笑わない方がおかしいですよ」
腹を押さえるほど笑った二人は、呼吸を整える。
シュバインはゆっくりと立ち上がるとお尻の埃を取るため数回叩き、壊れた椅子を見返す。正直恥ずかしくはなかった。
重みで椅子が壊れるのは初めてではなかったから。
「僕……頑張って痩せようと思います」
「へ?……どうしてまた」
唐突なダイエット宣言に首を傾げるイザベル。その決意を固めたシュバインの姿。
「……もう椅子を壊すのは散々なので」
「初めてでは無いのですか?」
「……はい」
そして、二人は再び笑い合ったのだった。
その日イザベルは1月ぶりとなる安眠を取れた。以降、悪夢を見ることは無くなった。
彼女はリーヴ男爵家に誇る料理長の手腕、美味しい空気や自然が影響してか、順調な回復を見せたのだった。
そして、執事やメイドたちにも笑顔を振り撒くようになる。
ただ、一番の笑みを浮かべるタイミングは美味しいご飯を食べている時と、父親から届いた手紙を読んだ時だった。