その小さな喫茶店は、石畳の敷き詰められた坂の途中にあった。
「いらっしゃいませ」
艶子が店に入ると、マスターがいつもの笑顔で迎えてくれる。年齢は不詳だが、いつもの会話の中身から察するところ、艶子とマスターとはほぼ同年代のようである。
「いつもありがとうございます。カプチーノでよろしかったですか?」
さすがマスターである。常連客の好みを完璧に把握している。
「ええ、ありがとうございます。それとナポリタンをお願いします」
「かしこまりました。今日は天気が晴れて気持ちがいいですね」
マスターは白い歯を見せて厨房に戻って行った。キビキビとした動きが
ある日マスターは妙に気になり出したことがあった。それは艶子の飲み終わったカップを片付けている時だった。
カップの底に、シナモンで何やら絵のようなものが描かれていたのである。それが自分に何かを訴えかけているように思えたのだ。
それはスプーンのような形が多かった。ときには茶碗のような形があったり、三角形に矢印が描いてあったりもする。
これはもしかすると、その日のコーヒーや料理の味を採点しているのかとも思った。しかし同じ原料配分で作るコーヒーの味が毎回そんなに変わるはずがない。謎は深まるばかりだった。
そこでマスターは一計を案じることにした。店のLINE友達を募集して、彼女の連絡先をゲットするのである。新メニューやブレンド豆のセールの案内をしながら、それとなく暗号の意味を訊くことができるかもしれない。
「ありがとうございました。お客様、もしよろしければお店のお得サービスのご案内などをさせていただきますので、LINE友達に登録していただくことは可能でしょうか?」
「もちろんですわ」
艶子はマスターの差し出した携帯電話に自分の携帯電話をかざして登録してくれた。
(やった!)
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それから何日かして、マスターは暗号のことを艶子に訊ねてみた。
“卯月様、不躾な質問をさせていただいてよろしいでしょうか”
“なんでしょう”
“いつも気になっておりましたが、カプチーノを飲み終わったカップの底に描かれている幾何学模様は、なにかのメッセージではありませんか?
“ありがとうございます。わたし、絵心がなくてほんとに恥ずかしいです”
“いえそんなことはございません。あのスプーンのような絵は何でしょう?”
“あれはスプーンではありません。
“鋤?それでは茶碗の絵は”
“牛丼のすき家のロゴマークです”
“すると三角に矢印は”
“三角ではありませんわ。あれはハートに矢が刺さった絵なんです・・・・・・わたし、マスターのことが好きなんです!”
“恐縮です!これからもよろしくお願い致します”
“だって、実家で飼ってるブルドックにそっくりなんですもの”