“お願い、わたしとのことはもう忘れてください。さようなら”
そうメモを残して、ぼくの恋人は姿を消した。
突然のことだった。ぼくと彼女は同棲を始めて2年になる。いったい何があったというのだろう。ぼくは彼女の勤め先や共通の友達に連絡を取ったが、誰も彼女の行先を知らないという。
まるでこの世から消えてしまったかのように、忽然と消息を絶ってしまったのである。彼女の持ち物は、ほぼなにも残されていなかった。
「ん?これは何だ」
それは、彼女の使っていたデスクの
「何の鍵だろう?」
ぼくは、貯金箱やオルゴール、デスクの引き出しなどを確認してみたのだが関係なさそうであった。わたしは鍵を眺めながら考えた。
「まさか不思議な国の扉の鍵だったりして・・・・・・」
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数か月後、彼女が帰ってきた。
湖畔のような透明感のある美しさは相変わらずだった。でもいつものマシュマロのような白くふっくらとした頬が、いくぶん疲れているようにも見えた。
ぼくは彼女をソファーに座らせると、別段とがめることもなく温かいココアを淹れてあげた。
「元気だった?」
彼女は毛糸の帽子を脱ぐと、長い黒髪がまるで水に漂うクラゲかなにかのようにふわりと肩の上に落ちた。そしてこっくりと頷いた。マグカップを包み込んでいる細長いホワイトアスパラガスのような指が、痛々しいくらいにぼくの眼のふちに残像となって映りこんだ。
「ごめんなさい。もう帰る場所がなくて」
「お帰り」
「怒ってない?」
「怒るなんて。それより、お腹空いてない?何か作ろうか」
「いいわよ。そんなのわたしがやる」
彼女は台所に立った。そして、冷蔵庫の扉を開けた。
「あら、ビールと白ワインとチーズぐらいしか残っていないのね」
「うん。君が出て行ってからというもの、毎日お酒とつまみぐらいしか食べていないんだ。ところでこの鍵は何だい?」
「あら、その手があったわね」
彼女は鍵を受け取ると、戸棚の奥からコンビーフの缶詰を取り出して来た。台形の缶に鍵を差し込み、クルクルとゼンマイでも巻くように鍵を回し始める。
「これコンビーフの“巻き取り鍵”っていうのよ。もう作られていないんだけどね。なくさないように抽斗の中に貼り付けておいたの」
「へえ、そうだったんだ」
彼女は冷蔵庫から使いかけのブルーチーズを取り出すと、ハチミツとコンビーフを加えて丁寧に混ぜ合わせた。最後に黒コショウをふりかけて、即席のおつまみを完成させたのだった。
ぼくたちは白ワインで乾杯した。
「黙っていたけど、実はわたし女優を目指していたのよ」
「ふうん。それで」
「ようやく芽が出そうになったところで、ある演出家の先生が一緒に暮らそうって言い出したの。わたし、あなたに何も言えなくて・・・・・・そのままこの部屋を飛び出しちゃったってわけ」
「なるほど。それって俗にいう“枕営業”っていうやつか」
「そうかも。でもただ
「この缶に誓って?」
「うん。コンビーフの缶はね、昔の枕みたいな形だから“枕缶”ていうのよ。だから枕営業なんて2度とカンベンなの」