「
何気ない男の子のひと言だった。
亜咲美は笑っていた口をとっさに両手で覆い隠した。そしてそのひと言が、亜咲美を二度と人前で笑わない子供に変えてしまったのだ。男の子に悪気はなかったであろう。子供は歯に衣着せない。だから余計に傷つく時があるのだ。
その言葉の
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大人になった亜咲美は、思い切って歯科矯正治療を受ける決心をした。
感染症流行のおかげで、日常的にマスクをすることが不自然でなくなったことが決め手になった。ただでさえ、ひとに口元を見られるのが苦痛なのだ。それを銀色のワイヤーや器具を装着することで、さらに目立つようになることに耐えられなかったのである。
「
受付で呼ばれて診察室に入った。医師は
「横川さん。矯正治療を担当させていただきます太田です」
「え?」
亜咲美は伏し目がちな目で挨拶をした。亜咲美がこの歯科医院を選んだ理由のひとつは、医院長が女医だったからだ。だからこの医師の担当は計算違いだったのだ。
太田は、亜咲美に今後の治療の方針と手順など細々したことを丁寧に説明してくれた。医師の話をきいているうちに、この太田という医師がとても誠実で、信頼できると感じた。それでも亜咲美は治療中に笑顔を見せることができなかった。
それから数か月治療が続いた。亜咲美のマスクの下の歯は、ブラケットと呼ばれる歯を動かすのに使う器具をワイヤーで固定されていた。ラケットやワイヤーにも種類があり、太田医師はなるべく費用が安くて目立たないプラスチック製のブラケットや、白くコーティングしてあるワイヤーを勧めてくれた。
それでも亜咲美は人に見られるのは苦痛だったので、人前でマスクを外すことはなかった。亜咲美は誰もが振り向く美形だったが、社内では笑顔を見せない鉄の女として通っていた。
さらに時間が経過し、ようやく治療が終了した。
器具が取り払われ、すっかり様変わりした前歯を、亜咲美は太田から手渡された手鏡で確認した。
美しいと思った。長い間、器具に食べ物が挟まったり、話しにくかったりした苦労がようやく実ったというものだ。
「横川さん、本当に良かったですね。とても綺麗になりましたよ」
太田は女の白く細い指が持つ手鏡をのぞき込んだ。しかしそこにも亜咲美の笑顔を見つける出すはできなかった。
太田は
「横川さん・・・・・・実は、あの時あなたを苦しめてしまったのはぼくなんです」
「え?」
「その節は本当にすみませんでした」
太田は細身の身体を前に倒して、治療椅子に座った亜咲美に最敬礼をした。
「え、本当にあの時の・・・・・・」
「小学校の時の同級生です。ごめんなさい」
「そんなことって・・・・・・」
麻咲美は目を見開いて太田を見た。
「治療の途中で気がついて、いつ言おうかと・・・・・・」
「もういいんです。ありがとうございました」麻美は夢でも覚めたかのように顔を伏せた。
「あの、ぼくとおつき合いしていただけませんでしょうか。せめてあなたの笑顔が戻るまで」
麻咲美は顔をあげた。
「・・・・・・それも治療の一環でしょうか?」
「アフター・フォローと考えていただいても結構です」太田が微笑む。
「矯正治療だけにそれも“強制”でしょうか?」
麻咲美が訴えるような目を太田に向ける。
「いいえ、ともに生きる方の“
麻咲美の顔に笑顔が戻った。