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Bluetooth

 あれは5年前の秋だった。

 ぼくはママさんテニスのインストラクターだ。自分で言うのもなんだけど、あるていどの美男子である。

 よくある話で、気がついたらぼくはある生徒の女性に恋をしてしまっていた。彼女も亭主持ちだったが、お互い惹かれるものがあったのだろう。自然な成り行きで意気投合してしまったのだ。

 ぼくの教室には常に20人ぐらいの生徒がいて、ぼく目当ての奥さんたちも多かった。だから、ぼくと彼女は秘密のサインを作って、お互いの意思疎通を図っていたのである。


 左手の親指と人差し指の先をつけて丸をつくり、アゴに手をやり、手首をひねって丸から左目をのぞかせれば“今日はOK”のサイン。

 左手の親指を左耳に差し込んでほかの指を握ったり開いたりしたら“今日はNG”のサイン。

 左手の小指を左耳に差し込んで左の親指を噛んだら“一昨日おととい来やがれ”である。


 ぼくらの逢瀬おうせはそう長くは続かなかった。彼女の亭主がぼくらの関係を怪しむようになってしまったからである。彼女はしばらくして、ぼくに何も言わないで、秋風が木の葉を散らすようにテニスクラブを去っていってしまった。

 その後しばらくは、心の空洞に寒風が通り抜けるような日々を過ごすしかなかった。

 今日も底冷えがするほど寒い日だった。新緑のような色の電車の中で誰かがささやいている。

「ねえ、聞いた。庶務課のA子ったら、経理部のK部長と不倫してたんだってさ」

「うそう」

「ほんとよ。それでA子の旦那が怒っちゃって。会社に電話してきたんだって」

「大胆。それ、誰が対応したの」

「こともあろうに、その電話、K部長本人が取っちゃったんだってさ」

「ゲ~」

 ・・・・・・周りの喧噪けんそうわずらわしくなったぼくは、Bluetoothのコードレス・フォンを取り出して耳に両差し込んだ。するとどうだろう“コネクティッド”という音声ガイダンスが流れ、音楽が流れはじめたのだ。

 混線か。いや、Bluetoothは混線などしないはずだ。なんと、流れてきた音楽は、5年前に彼女とよく聴いていた想い出の曲だったのだ。

 ぼくは周囲を見渡した。隣の車輛にぼくを見つめる彼女の姿があった。そうか、これは彼女の携帯電話からなのか。

 彼女は表情をまったく変えず、むしろ平然としてみえた。そして彼女の腰のあたりから娘とおぼしき女の子が、しきりにこちらを盗み見ている。顔が彼女にそっくりだった。

 そして少女はぼくを見て、左手の小指を左耳に差し込んで、左の親指をしっかり噛んでいるのであった。

 ぼくは苦笑するしかなかった。

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