そのオーベルジュは奥深い森林の中にポツンと佇たたずんでいた。
ペンションとオーベルジュの違いは、ペンションが宿泊をメインとした施設ならば、オーベルジュは料理をメインとした宿泊付施設というところだろう。ゆえに、この『オーベルジュ・キタガワ』の主人も、かつては有名なレストランのシェフだったのだという。
オーベルジュ・キタガワには、口コミによるある噂が広まりつつあった。この宿に宿泊したカップルは、もれなく別れる運命になるというのだ。興味本位で、あるカップルがYouTubeに載せようと洒落で泊まったところ、数日して女性の方が帰らぬ人となったことで噂に拍車がかかってしまったという。そのおかげで、オーベルジュ・キタガワの集客数は減少の一途をたどってしまっていた。
「ここね」
男女がキタガワの前に立っている。
「ああ。ぼくらの最後の一夜を過ごすホテルだ」
「素敵なホテルじゃない」
「料理の味は抜群なのだそうだ」
「素敵な思い出になるわ。ありがとう
「
「わたしもよ・・・・・・でも仕方ないわね。わたし達そういう運命だったのよ」
ホテルを前にして、雅史と峰子は涙でいくぶん塩辛くなった唇を重ね合うのであった。
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「あなたは峰子さんの・・・・・・」
「婚約者の
男は深々とおじぎをした。髪から雨のしずくが絶え間なく落ちている。
「雅史の家内です。渡部美佐子と申します」
菅沼は驚いた顔をして美佐子を見た。
「そうですか。あなたが・・・・・・いま彼らは食事を終えて部屋に入ったようです」
「・・・・・・」
二人はオーベルジュの二階を見上げた。ここにあの二人がいるのだ。その時、突然ドアが開いた。コックの恰好をした紳士が現れる。
「どうぞお入りください」
「いえ、わたしたちは・・・・・・」
「雨がひどくなって来ています。雨宿りだけでもかまいませんから」
菅沼と美佐子は顔を見合わせた。
「・・・・・・それでは、お言葉に甘えて」
店の中は暖炉に火が入っていて暖かかった。調度品もセンスのいいアンティーク調でまとめられている。
「いらっしゃいませ。わたしはシェフの
「はあ、実はお腹がペコペコなんです。朝から何も食べてなくて」
菅沼はほっとした表情で美佐子を見た。
「はい、わたしもなにか軽いものをいただこうかしら」
「いまメニューをお持ちいたします」
北川が奥に戻って行った。
「お互い大変ですね」
菅沼は申し訳なさそうに美佐子に頭を下げる。
「そんな。菅沼さんになんてお詫びをしたらいいのか・・・・・・うちの主人が・・・・・・」
「今はもうそっとしておきましょう。どうやらここを最後にふたりは戻ってくる決心をしたようですし」
「そうですね・・・・・・わたしもここまで追ってくる必要はなかったのかもしれません。なぜか胸騒ぎがして、いても立ってもいられなくなってしまったのです」
「分かります。わたしもそうです。峰子は別れるための旅行だと言っていましたが、信じられなくて。でも少し安心しました。大きな声では言えませんが、なんでもこのオーベルジュに宿泊したカップルは必ず別れるんだとか」
「ええ、わたしもタクシーの運転手にその噂はお聞きしましたのよ。だから雅史はわざわざこのオーベルジュを選んだのね」
「食事が終わったら帰りましょうか」
「ええ。そうしましょう」
その土地の特産物をふんだんに使った料理は最高においしかった。北川がデザートとコーヒーを配膳してくれた。
「お客様。どうやら線状降水帯が発生してしまったようです。新幹線や高速道路も明日の朝まで使えないとのことです。もしよろしければ、お部屋は空いてございますが、いかがいたしましょうか」
「参ったな。それじゃあ、ぼくたちの部屋は別々にしていただけませんか」
北川がちょっと妙な顔をしたが、にっこり頷いた。
「それでは2部屋ご用意させていただきます」
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美佐子と菅沼の部屋は隣合わせだった。ところが、部屋と部屋を隔てている壁にドアが備えてあり、お互いの鍵を外せば自由に行き来できる構造になっていた。二家族の宿泊などに重宝するのだろう。
夜が更けた。
菅沼は、このホテルのどこかの部屋に、フィアンセの峰子が美佐子の夫と身体を合わせて寝ているのだと思うと、目が冴えて眠れないのだった。その時隣の部屋のドアから、遠慮がちにノックする音が聞こえて来た。菅沼はロックを外してドアを少し開けた。美佐子が訴えるような目で菅沼を見つめていた。
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翌朝は昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、青空にくっきりと白い雲が貼りついていた。気持ちのいい朝だ。
「おはようございます」
北川が階段を下りてくる菅沼と美佐子を出迎えてくれた。
「モーニングセットをテーブルにご用意させていだきます。ご自由にお座りになっていてください」
ふたりは、窓際のテーブルに座って朝食をとっている雅史と峰子に近づいて行った。雅史と峰子が顔を上げて驚愕の表情を浮かべる。
「あ・・・・・・どうして」
菅沼はふたりに微笑みながら声をかける。
「おはようございます。実はぼくたち、君たちさえよければ一緒になろうと思っているのだけれど、どうだろう?」
「え?」
峰子が目を見開いて雅史に視線を移した。美佐子が頬を染めながら微笑んだ。
「ここのオーベルジュは、お付き合いをしているカップルだと別れちゃうけど、そうじゃないカップルだと逆に結ばれちゃうらしいのよ」
「そうなんですね」雅史が電灯を灯したように明るい笑顔になった。「実はぼくたちも分かれるつもりで宿泊したんで、すっかり寄りが戻っちゃったんです」