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twilight-黄昏

 そのバーを見つけたのはほんの偶然からだった。


 いつものように酒を呑み、夜の街をさまよっていると、遠くにポツンと灯りのともった店を見つけたのだ。場末の飲み屋街の裏路地のさらに横道に入った、暗い路地の突き当りにその店はあった。こんな場所に店があったとは知らなかった。

 申しわけ程度に作ったとしか思われない看板が、虚ろなわたしの目に入ってきた。『Bar twilight』

「twilight・・・・・・黄昏たそがれねえ」

 わたしは古めかしい小さな木戸を押し開けて中に入ってみた。薄暗い明かりの元に、5人も座れば満席になりそうなカウンターがあった。客はだれもいなかった。

 カウンターの向こうにはかなり年配と思われるバーテンダーがひとり、まるでオブジェかなにかのように佇たたずんでいる。バーテンダーの背後の棚には、色とりどりの酒瓶が標本のように並んでいた。

「いらっしゃいませ」

 バーテンダーの口からゼンマイ仕掛けのおもちゃのような音声が流れた。わたしは、比較的居心地がよさそうな奥から2番目の席に座った。

「何にいたしましょう」

「そうだな。今日はちょっと気分が晴れないんで、晴々として、それでいて心にズシンとくる重厚な力のあるカクテルを作ってくれないか」

 バーテンダーにとって張り合いのない客とは、「なんでもいい」とか、「おまかせする」など主体性のない客だと聞いたことがある。少しでも彼らの創作意欲をくすぐるヒントを与えると彼らは喜ぶはずだ。

 バーテンダーは片方だけ口角を上げると、棚からアクアヴィットやクレムド・ド・マンダリン、それに冷蔵庫からライム・ジュースを取り出してメジャー・カップで調合し、シェーカーを振り出した。

 シェークは酒を混ぜ合わせるのが目的だが、ただそれだけではない。氷で急速に冷やすのと同時に、空気をほど良く混ぜ合わせるのである。適度に空気がまざることによって、強いアルコールの酒をマイルドに変身させてくれるのだ。シェークはやり過ぎてもいけないし、少なくてもいけない。ここがバーテンダーの腕の見せ所なのである。

「どうぞ」

 差し出された逆三角形のショートグラスの中に、赤銅色に輝く液体が入っていた。

「コペンハーゲンです」

 ひと口飲んで驚いた。今まで飲んだことのあるカクテルとは明らかに違う。深みがある。

「おいしいです」

 素直にバーテンダーに感想を告げると、彼は少しだけはにかんだ顔をして頷いた。その後わたしの心が荒すさんだときなどには、必ずその店に通うようになった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 その晩は亡くなった妻を思い出してバーテンダーに想いをぶつけてしまった。

「妻との思い出をカクテルにしてくれないか」

 それは無理というものだろう。あまりにも漠然としたリクエストだった。バーテンダーはしばらくわたしを見つめていたが、ゆっくり頷くと、店の奥に消えていった。そして手に金色に輝くシェーカーとメジャー・カップを持って出て来たのだった。

 バーテンダーは、アップルジャック(りんごのブランデー)とライム・ジュース、グレナデン・シロップを黄金色のシェーカーに注ぎこんだ。

「亡くなった奥様にまつわるものとかお持ちじゃありませんか」とバーテンダーはわたしに言った。

「いえ、とくに何も」

「それでは、左手を出してください」

 バーテンダーはわたしの手の平をシェーカーの上にかざした。そしていつものようにシェークを始めた。規則正しい音が、時を超越しているような心地よいリズムに聴こえる。

 出来上がったカクテルは真っ赤な色をしていた。

「ジャック・ローズ」です。

 わたしはカクテルに口をつけた。ライムの酸味とグレナデン・シロップの甘みが、薔薇のようなすっきりとした風味を引き立てていた。戻ってくる、戻ってくる・・・・・・妻との思い出が、すべて目の前に戻って来るような不思議な感覚にとらわれた。

 なんだろう、この懐かしさは。わたしは今まさに妻と一緒にその場所にいた。妻が笑っている。わたしの左手と妻の右手がしっかり握られている感触があった。わたしはいつの間にか涙を流していた。

 ありがとう。ほんとうに・・・・・・ありがとう。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 翌日もわたしは『Bar twilight』に足を運んだ。どうしても昨晩のお礼をもう一度言いたかったからだ。ところがバーは灯りが消えていた。

 バーの入り口で途方に暮れていると、背後から女性が声をかけてきた。

「あの・・・・・・」

 振り向くと、見ず知らずの若い女性がそこに佇んでいた。

「今日はお店、お休みなんでしょうか?」

 女は不安げな顔をしていた。

「そうらしいですね。いつもはこの時間に開いているんですけど。今日はどうしたんだろう」

「そうですか・・・・・・」

「あなたもこの店の常連さんなんですか?」

「ええ。でも仕方ないですわね、お休みだったら・・・でもおかしくないですか」

「なにがですか」

「この店、いつもよりもさらに古くなってるような・・・・・・」

 そう言われてわたしはもう一度店を眺めてみた。確かに古めかしい店だが、ここ数年使われていないかのような様相を呈していた。あちこちが痛んでいるし、窓には蜘蛛の巣が張っていた。

「ちょっと待ってください」

 わたしは店のドアを押してみた。鍵はかかっていなかった。バーカウンターの中にいた初老の女性が驚いて顔を上げた。

「あの・・・・・・今日はお休みなのでしょうか」

 わたしは店の中に静かに足を踏み入れた。さきほどの女性もわたしの後ろから恐る恐るついて来ている。

 初老の女性は何のことか分からないといった顔である。

「この店はもう三年前からやっていませんけど」

「え?どういうことですか。わたしは昨晩もここでお酒を飲ませていただいてるんですが。ほら、この写真のバーテンさんがいらっしゃったでしょう?」

 わたしは店に飾られた写真立てを指差した。

「そんなばかな。うちのひとは3年前に亡くなっていますのよ」

「亡くなられている・・・・・・」

 わたしは頭が混乱していた。この女性はあのバーテンダーの細君なのか。わたしは一部始終をバーテンダーの奥さんに話して聞かせた。そしてさきほど道で出会った女性も同様の証言をするのだった。


「そうですか。夫はきっと、あなた方に喜んでもらって満足したのでしょうね」

「もう彼はここには戻ってこられないのですかね」

「あのひとは、最後に自分の想いを込めたカクテルを作ってしまったんだと思います。さきほどカウンターにこれが転がっていました」

 細君が差し出したのは、あの黄金のシェーカーとメジャー・カップだった。

「このシェーカーの中に、わたしとあの人の結婚指輪が入っていましたの」

 わたしは、路上で出逢った女性と顔を見合わせてしまった。絶妙に空気が混じり合ったような感覚だった。

 わたし達は同時に微笑んだ。そこに新しい未来が見えたような気がしたからだ。 

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