「
中学校の職員室で、わたしは教頭の机の前で頭を下げていた。
「なに、楠木先生の責任じゃありませんよ。藍田翔太の家庭環境に問題があるのでしょう」
「申し訳ありません」
わたしはうつむきながら教室に戻った。
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放課後、藍田翔太を用務員室に呼んだ。職員室に呼ぶと、外野の先生たちが彼を刺激して挑発しかねないと考えたからだ。
「ご無理を言ってすみません」
わたしは用務員に詫びた。
「いえいえ、楠木先生も問題児を抱えてたいへんですな」用務員は頭の禿げ上がった、気のいい老人だった。「しばらく校内を見回りしてきますから。あとはよろしくお願いしますよ」と言って出て行った。
わたしはパイプ椅子に座って翔太に向き合った。
「藍田君。また喧嘩したんだって?」
「・・・・・・」
翔太はそっぽを向いている。
「あなたはボクシングをやっていたのよね。お願い。卒業するまで喧嘩はしないって誓って欲しいの」
「・・・・・・」
「そうでないと・・・・・・」
「先生クビになる?」
翔太がわたしの目を見た。
「わたしのことなんてどうでもいいのよ。このままだと、きみが学校にいられなくなっちゃうじゃないの」
翔太の切れ長の目がじっとわたしを見つめていた。
「わかった。約束する」
翔太が頬を赤く染めてそう言った。
「ありがとう」わたしは翔太の両手を掌で握って言った。「お願い・・・・・・ね」
翔太は真っ赤になって頷いたのだった。
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その日、わたしは2クラス分の試験の採点をして帰路についた。もう秋なので暮れかかった高い空に、渡り鳥の群れが黒い影を作って山に向かって流れて行くのが見えた。
近道して帰ろうと思ったのがいけなかった。そこは他校の生徒が溜まり場にしている場所だったのだ。かすかに煙草の匂いがただよっている。わたしは教師という立場から、ひとこと注意を促すことにためらいはしなかった。
「あなたたち、中学生よね。煙草はまだ早いでしょう。もう家に帰りなさい」
すると岩影のように見えた塊が動き出した。
「うるせえよ、ババア」
「それより中ボーに小遣いのひとつも恵んでくれよ」
「なんかスゲー美人じゃね。おれ、大人の階段登ってみたいなー」
最近の中学生は体格もいい。7、8人はいるようだった。わたしは危険を感じて後ずさりした。すると、何人かが走り出してわたしの退路を塞いでしまった。わたしは完全に包囲されたのだ。
「やめなさい。こんなことをしていいと思ってるの」わたしは叫んでいた。「わたしは〇×中学の教職員ですよ!」
すると影は動揺した風もなく、暗闇に白い歯が浮かんだ。「先公だってよ」口の中で潰れた笑いが漏れてきた。「そうか。あんた、おれたちの敵ってわけか」
黒い影は一斉にわたしに向かって、まるで猿が餌に飛び掛かるかのように襲いかかって来た。
「ひぃぃぃ!」
その時悲鳴が上がった。後ろの3人が横倒しに倒れたのが分かった。
わたしの前に、疾風のように細長い人影が現れた。
前方から襲いかかる暴漢に対し、その人影は一旦屈むと目に見えないパンチを繰りだしたのだった。風を切る音がして、連続してぶ厚い肉がハンマーで叩かれたような音と共に、バタバタと暴漢達が地面へと沈んで行った。ほんの一瞬の出来事だった。ひとりの人間が、あっという間に暴漢たちを叩きのめしてしまったのである。
「あの・・・・・・」震える声でわたしはその影に向かって言葉をかけた。
切れ長の目が闇に光った。次の瞬間、わたしはその影に唇を奪われていた。微かに柑橘の香りがした。わたしは電気が走ったような衝撃を受け、硬直して身体を動かすことも、その影から逃れることもできなかった。
どのぐらい時間が経過しただろう。気がついた時にはわたしはその場にへたり込んでいた。遠くからパトカーのサイレンが近づいて来るのがわかった。
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翌日職員室に入ると、校長と教頭が用務員と何か話し込んでいる。何かが起きたのだ。わたしの一件だろうか。
そうではなかった。どうやら夜中に誰かが職員室に忍び込んだ形跡があるというのである。
藍田翔太は学校から姿を消した。
わたしの机の上には、