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第7話 高瀬悟のターン②


 僕はキャンパスから突如現れた男性、ジェンダーに驚いて、後ずさりした。

 彼は背がとても高く、オールバックの黒い髪に、ぴっちりとしたタキシードを着て、こちらに近づいてくる。

 僕は鞄が足に当たり、体勢を崩してしりもちをつく。


「あ、あなたは誰? 僕は夢を見てるの? それとも疲れてるの? あなた、さっきこのキャンパスからでてきたよね」

「そんなことどうでもいいじゃないか。せっかくいい話を持ってきたわけだからさ。悟。ありのままの君を愛してくれる人が君を待ってるんだよ」

「ありの、ままの僕を? こんなダメな僕でも、愛してくれる人がいるの?」


 ジェンダーはにやりと微笑むと、僕の前にしゃがみこんで頭をポンッと撫でた。


「悟。君は選ばれたんだ」

「選ばれた……?」


 ジェンダーがMotherの話をしていくうちに、僕が選ばれたということと、愛と幸福が手に入る話に徐々に誘われていった。


 ファンタジーな世界がこの世の中に存在するなんて思ってもみなかった。愛と幸福の女神に、キャンパスから現れた従者、女神に選ばれた者たち。

 まるで、物語の中に入った気分だ。


 選ばれたからには僕には特別な何かがあるに違いない。


 そうだ、女神に選ばれた僕は、特別なんだ。


 こうして僕は、Motherの候補者になることに決めた。


 それなのにジェンダーが話をしていた内容と少し違う。

 審査があるのは聞いていたが、自分の特技を捧げなければならないなんて聞いていない。


 Motherに特技を捧げれば、僕は二度と絵を描くことができなくなる。思いどおりに絵が描けなくなるのだ。絵が描けない僕なんて、本当にただのダメな人間になってしまう。


 だけど、そんな僕でも審査さへ通れば、Motherは愛してくれるという。 

 絵が描けない僕でも、勉強も運動もできない僕でも愛と幸福が約束される。自分の特技を捧げれば、愛と幸福への道が一歩近づくのだ。


 だが、最後まで審査を合格できるのか今更ながら不安になった。


 不合格になったらどうなるのだろう。そのまま帰されるのだろうか。

 特技を無くしたまま、一生を過ごすのかと思うと生き地獄は覚悟しなければならない。


 棄権するなら今のうちなのか?とだんだんと弱気になってしまう。



 第一の審査の始まりを告げられ、僕は自分の部屋へ戻された。


 左の手のひらに違和感があり、手を広げて見てみると、日付と時間がデジタル式で光輝いていた。


 審査までのタイムリミットなのだろう。僕は怖くなってぎゅっと左手を握りしめる。


 審査まで二週間。

 特技を手放す時間まで二週間しかない。


 それまでにたくさん絵を描かなければ。寝る時間でさへも惜しい。コンテストに出すための絵をもう一度描き直そう。明日学校へ行ってキャンパスを2つ持って帰って、部屋で描くんだ。


 僕は机に向かってスケッチブックを広げると、鉛筆を削ってひたすらに絵に向き合った。


 ***


 次の日学校へ行って、キャンパスを2つ作って持って帰る。本当ならここから学校なんて行かずに、絵を描き続けていたかったが、親が許してくれないだろう。授業中でもこっそり絵を描くしかない。


 三日後になって父親から、インターンシップの話がきた。来週の月曜日から三日間製造のインターンシップに行けと言われてるが、僕にはそんな時間がない。しかし親にMotherのことなど言えるわけがなかった。僕はため息をついて、父親にわかったと伝える。


 コンビニで買った眠気ざましの薬を飲んで、絵の具をパレットから出す。色を混ぜている時がとてもドキドキする。どんな色が生まれるのか考えるのが楽しみで仕方がない。


 僕は絵が好きだ。

 大好きだ。

 この一時が審査で終わってしまったら、僕はMotherの次の審査を待たずして自殺してしまうのかもしれない。


 それなら、審査を辞退してもいいのかもしれないと考えてしまうが、すぐに現実という波が押し寄せてくる。それに耐えられるのかと思えば、それもそれで不安だった。


 不安が絵に表れるのか、帆船が荒波に飲まれる絵が完成されていく。


 現実を見て、やりたくない仕事をしながら孤独に趣味として絵を描くか。

 Motherを求めて、愛と幸福を手に入れるか。


 どっちが僕にとって幸せなのか、渦巻く海のごとくぐるぐると考えてしまう。


 絵を描いているうちにどっと眠くなり、僕は三時間だけ眠ることにした。


 ***


 Mother。Mother。

 僕の絵を見ておくれ。

 僕はこんなに描けるんだ、こんな落ちこぼれの僕でもできることがあるんだよ。


 夢の中で、Motherに絵を見せる僕がいた。

 僕らは薔薇が咲き誇る庭園のガゼボに座っている。

 茶色のウェーブがかかった長い髪に、中世ヨーロッパ時代で着るようなドレスを纏った美しいMother。僕も昔の西洋の人が着ているような服を着てキャンパスを彼女に見せている。


 彼女はとても喜んで、僕の頭を撫でてくれた。


「あなたの特技はよくわかったわ。悟」

「ねぇ、本当に僕を愛してくれるの?」

「特技がなくても、あなたを愛するわ。子供を愛するのに、特技なんてあってもなくても関係ないもの。そうでしょ?」


 Motherはキャンパスをとって、花園に投げ捨てた。そして僕を抱き締めて、優しく背中を擦る。


 僕はキャンパスを無下に投げ捨てられたことがとても悲しく思えた。


「私はあなたのものになる。あなたも私のものになるのよ。それ以外何もいらないじゃない、なにも」


 Motherのぬくもりが心地よい。

 意識がだんだんと遠ざかっていく。


 愛と幸福。

 投げれたキャンパス。

 僕の心にはまだもやもやと霧のようなものがかかっていた。


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