高瀬悟。高校2年生。
僕は落ちこぼれの人間だ。
勉強はからっきしダメで、運動なんてもっとひどい。見た目が良ければまだ救いだったのかもしれないが、どこをどうみても、鏡で凝らして見たとしても、冴えない男子高校生が映っているだけ。
僕は自分が嫌になるくらい感覚がとても過敏だ。
大きな音や強烈な光が特に苦手なのだが、クラスにいる一軍の子達は僕の近くでわざと大きな音を立てたり、下敷きを使って僕に向かって光を照らしたりして、僕を玩具にして遊んでいる。
「高瀬! このデブ! お前、算数もまともにできないって本当か? 高校二年生にもなって小学生レベルでつまずいてるなんて終わってるぜ」
そんなことないと言いたいが、僕が勉強できないことはクラスメイトの誰もが知っている。
たしかに僕は算数というものが大の苦手だ。特に応用問題になるとわけがわからない。頭から問題が右から左へ抜けていって、意識が別の方にいってしまうのだ。
だが、そんな僕にだって得意なことがたった一つだけある。
それは絵を描くことだ。
放課後。美術部の活動が始まると、イーゼルを組み立てて、昨日作ったキャンパスを立て掛ける。鉛筆削りで鉛筆を尖らせて、頭でイメージさせた絵をシャッシャッと描いていった。
絵の中にこそ素敵な世界が広がっている。
僕の頭で想像したものが、こうして視覚として絵に残る。
それを見て、周りが感動してくれるだけで僕はそれで幸せだったが、感動したと言ってくれる人はまだ誰もいない。
僕は賞をひとつもとれた試しがない。
美術の先生は僕にこう言うのだ。
「君は技術はあるが、君の感性は人とずれている。自分の人間性を磨きなさい。努力と才能は比例しないんだ」
僕の感性が人間性にどう関わってくるのかよくわからなかったが、僕が賞をとれないのは人とずれているからなんだと言われたときは、少し寂しく感じた。
僕は美術の大学か、専門学校へ進むしかないと考えていた。賞がとれなくても、自分には絵しかない。得意なところを伸ばせば、きっと将来もよくなるはず。
だがそこへ立ちはだかる壁がある。
両親だ。
「悟。あなたのその成績で大学に行けとは言わないわ。お父さんの職場の製造課で人手が足りていないようなの。そこへ行ったらどうかしら」
「どうかしらもこうかしらもないだろ。悟。高校卒業したら、すぐに働きなさい。お前ははっきり言って馬鹿だ。出来損ないだ。お前は俺が見ている下で働くしかない」
食事が終わった食卓の席で、二人が僕にこぞって働けと言ってくる。僕はおどおどと小さな声で、呟くように両親に言った。
「僕、絵の学校に行きたいんだ。僕が絵が上手いのは知ってるだろ? 僕の特技はこれしかない。自分の才能を伸ばしたいんだ」
シーンと静まり返る食卓。
僕は目を泳がせながら、肩をあげて机をじっと見つめた。親の反応が怖くて顔が見れない。
あぁ、これはきっとダメだ。
父親がフッと嘲笑した。
「才能を伸ばすと金が貰えるのか? 食えるものが食えるのか? 絵だけで食べてはいけないんだ。まともに計算も、読み書きもできないくせに。甘えるな。夢ばかり語るのはやめろ」
さらに母親がそうよと言って、畳み掛けてくる。
「三者懇談で担任の先生言ってたじゃない。ちょっとした大会で賞をもらったとしても、大学の推薦もとれないって。国内で有名な大会で認められる一握りの存在にならないといけないのよ。それにあなたは賞のひとつもない。才能がないのよ。絵は趣味範囲で終わりにしなさい。それがあなたのためよ」
「現実はそう甘くはないんだ悟。近々製造課のインターンシップがある。特別に参加できないか頼んでみるから。これを機に、早く大人になりなさい」
コロン。
コロンコロン。
僕の心の中にある透明なビー玉が落ちて、両親がそれを砕いていく。
そのビー玉は希望だったのか、淡い期待だったのかわからないが、砕かれた瞬間心が痛かった。
才能がない子に投資はできない。
出来損ないの子なのだから、期待などできるはずもない。
両親は僕の絵を見ようとしたことも、褒めたことも一度もない。どちらかと言うと、絵の描けない二人から絵の描ける子供が生まれたこと自体、不思議に感じていると言っていた。
もし絵が描ける両親のところに生まれたのなら、快く絵の学校に行かせたのだろうか。僕の絵を見てよく描けたねなど言って、誉めてくれるのだろうか。
いや、賞がとれていない以上、僕の絵を好きになってくれないだろう。
賞がもらえない絵などゴミと同じなんだ。
何も持っていない僕もゴミ屑と同じ。
何かひとつでも賞がとれれば、両親は僕を見てくれたのだろうか。
小学生の時だ。
両親が、僕が出来損ないだとわかったあの日から冷たい目で僕を見るようになった。両親はそこそこのいい大学を出て、そこそこのいい会社に勤めている。そこそこの子供が生まれると思っていたのに、まさか落ちこぼれが生まれるとは思わなかっただろう。
サミシイ気持ちが心の中で溢れていく。
僕は部屋に戻り、ノートを広げて鉛筆を持ち、絵を描いた。紙を殴るように、黒い世界の中に飛び込むように大きな黒いハートを描いた後で、ひたすらそれを塗りつぶした。
こんな落ちこぼれでも、できることがある。
こんな落ちこぼれでも、得意なことがある。
得意なところがあるからダメだと思わないようにしてきた。
得意なことを伸ばせばそれでいいと、誰かが見てくれる、認めてくれる思っていた。
だが現実はそんなに甘くはない。
せめて、両親のたしかな愛だけは感じたかった。
黒く塗りつぶしたハートの絵をぎゅっと抱き締め、それからそれを砕くようにくしゃくしゃに握りつぶした。
「高瀬悟……」
「! 誰!?」
部屋のどこからか声が聞こえる。
ここには自分しかいないはずなのに。
また男の人の声が聞こえた。
「君の絵は、素敵だね。でも、どこか寂しそうだ」
部屋中を見回して、一枚のキャンパスに目を止めた。
学校の風景を描いているその中に、描いた記憶がない男の人がポーズをとっている。
その男の人はギョロッと僕を見ると、キャンパスから足を伸ばして絵から出てきた。
「な、なんだ!?」
彼は実際の大きさに戻ると、僕に丁寧にお辞儀をして挨拶をした。
「はじめまして。高瀬悟。私の名前はジェンダーだよ」