あの人が酔いつぶれる前に言わなくてはならない。
鞄から進路希望の紙を取り出し、部屋の戸を開けて、台所で新しいビールを開けるあの人に見せるように机にさっと置く。
緊張と不安で鼓動が速くなっていく。気弱になってはいけないと、椅子に座ってあの人がどう出るか観察した。あの人はちらりとしか紙を見ずにビールをあおる。
ここで引いてはいけない。
私は自分のペースに持っていくために口を開いた。
「出してないのは私だけなの。私、化学の研究者になりたい。そのためには大学に行く必要があるの。借りられる奨学金とか、アルバイトとかちゃんと考えてるから。成績がいいのは知ってるでしょ? お義母さんに絶対迷惑かけない。だから私、大学に行く」
あの人は嘲笑しながらビールをまた一口含むと、進路希望の紙の上にビールをトンッと置いた。缶は底が濡れており、じわっと紙が浸る。
その行為は、私の希望があっさりと踏みにじられたように思えてならなかった。
「生意気言ってんじゃないよ。アルバイトだけでやっていけるわけないだろ。必ず私にお金をせびってくる。私は一円も出すつもりなんてないからね。あんたはここをさっさと出て、働くんだよ。そこであんたとはおさらばさ」
「せびるつもりはない。私は……」
「私はね、育てたくもないお前をここまで育ててやったんだ! 一刻も早くあんたとは縁を切りたいんだよ。今すぐにでも出ていってほしいって思ってるのに」
「育ててくれたことには感謝してる。これ以上迷惑かけないから、お願い。大学に行かせて」
「もう、保護者とか、お母さんとか周りに言われるのは嫌なのよ! 私はお前の母親じゃないし、私に子供はいない! お前らが私の幸せを奪ったんだ!」
膝の上に置いた拳を握りしめ、私は我慢できずに吐き捨てた。
「だから、私の幸せを奪うの? 私の未来までも閉ざそうとするわけ?」
「図々しいところはお前の母親そっくりだよ! 母親と一緒にあの時死ねば良かったのさ!」
あの人は怒りに任せて飲みかけの缶ビールを私に投げつけた。それは見事に私の額に当たり、ビールの中身が制服にかかる。
「この恩知らずが! 大学なんて行かせないからね! あんたはここを出る。後なことは知らないよ。の垂れ死のうがどうなろうがね。私がどれだけ辛い思いをしてお前を育てたかわかってるのか!」
もうダメだ。話しにならない。
私は立ち上がると、アパートから出た。
ビールの匂いがまだ残っている。缶ビールを当てられたところから鈍痛がしてきた。
階段を下りて、近くの公園へと走る。雪は容赦なく降り注ぎ、ところどころ積もり始めてきた。
凍てつく寒さも、吹いてくる雪なんてどうでもいい。
走っていると気分が落ち着く。喉と耳の奥が痛くなって、肺が冷たくなる感覚がどこか心地よく感じるのだ。
悲しくなった時、悔しくなった時はいつもこのこじんまりとした公園へ行く。遊具は滑り台とブランコと砂場しかなく、いつもそのブランコに腰かけて心が落ち着くまでボーッとしている。
あの人は私を好きになることはない。
絶対に、永久に。
それは、当たり前のことだ。
あの人だって辛い気持ちで私を育てていることくらいわかっている。赤の他人の私を、憎い私を追い出したいところを我慢して育てていたことくらい痛いほどわかる。
周りの家族を見て、憧れる時は多々あった。
親も子も笑顔で、手を繋いだり腕を組んだりして幸せそうにしている。
私には一生訪れることのない春の暖かさ。
私はずっとこの吹雪の中で生きる冬。
どうして生まれてきたのか、そればかり考えることが多くなっていった。将来の希望も未来も閉ざされた私にあるのは枯れ果てた現実だけ。
冷たく錆びたブランコの鎖を握り、瞼を深くとじた。ヒューヒューと雪が降り、全身が冷たくなる。
死に場所はここだと考えていたが、一つだけ確認したいことがあった。
あの街灯に棲む亡霊だ。
きっと建物か何かの影だと思うが、それでもあれだけはどうしても気になって仕方がない。
私はブランコから降りて、例の街灯へ向かうことにした。
あれが、ただの影ならまたこのブランコに戻って雪にまみれて死のう。
でも、もし本当にこの世の者ではない何かなら?
私のわずかに眠る好奇心が疼いてくる。
この世の中に、不思議なことがあるのなら体験してみたい。その亡霊に襲われても、殺されてもいい。
ただ街灯に棲む亡霊が一体なんなのか最期に知りたい。
街灯まで一直線に差し掛かる。
いつも通り、枯れたオレンジ色に照らされて黒い影が見える。私は唾を飲み込んで一歩、また一歩と街灯に向かって歩く。
アパートを通りすぎて、街灯まで残り半分。
亡霊はだんだんと形がわかるようになり、人の姿をしているように見えた。
雪は変わらず降り注ぎ、積もった雪で足をとられそうになったが、亡霊から視線を外さないように顔だけは前を向く。
もう少し。
街灯まですぐのところで、私は亡霊の正体を見た。
黒くて長いコートを羽織り、ふんわりとウェーブがかかった短髪。背はスッと高く、肌は恐ろしく白い。
街灯で蠢く亡霊の正体は、一人の男だった。
その男は私をじーっと見つめていた。その瞳は温かく、そしてどこか懐かしい気持ちにさせる。
自然と足が前へ前へと進み、男の目の前で止まった。
彼は街灯にすがって腕を組んだまま、にっこりと私に微笑んだ。
「萩本アキ。ようやくこの日が訪れた」