今日もまた、街灯に住まう亡霊が枯れたオレンジ色の光に照らされている。
私が住んでいるアパートを越えた小道の奥。そこに古びた街灯が一人寂しげに立っている。夜になるとそれは、枯れたオレンジ色でアスファルトを小さく照らしていた。
そのオレンジ色に光る街灯の下に、黒くて蠢く何かがいて、こちらをじっと見ているように感じる。
それを私は、街灯の亡霊と呼んでいた。
目を凝らしても街灯の逆光でよく見えない。近づくには、それはそれで勇気が必要だった。
その亡霊を怖いと思ったことはない。
それどころか私を密かに見守っているようにも見えてくる。何者なのか知りたいが、長いこと通して振り返ってみても、どうしても前に進めなかった。
でもなぜか。
本当になぜかわからないが、近いうちに勇気を出してあの街灯の下に自ら近づいて行く日が来るような気がした。
そして、その日は近いということも。
新年のお祝いも終わり、今日も辺りは雪が降り注ぐ。
凍てついた雪は私の黒い瞳の中を刺した。
私はそれを目を閉じて受け止めて、暗い現実を呼び起こす。
これが現実なのだ。
そう、世の中は凍てついていて、どこか満たされない。
─※─I Love Mother.─※─
「萩本。その補習の紙は昨日提出だったんだ。言わなかったか?」
英語教師の繁崎透は二十代後半の若手の先生でありながら、厳格で冷酷な先生だ。
私が英語の問題を間違えただけで予習不足だと判断し、補習の紙を渡した。その紙がその日中に提出だったなんて誰も教えてくれていない。そもそも友達がいない私にとっては、不利でしかない話だった。
繁崎もそのシステムを知ってる前提で紙を渡すものだから性格が悪い。彼は、自分は悪くないぞと言うような目つきで私を見ていた。
「すみません、知りませんでした。もう一度書き直すので、もう一枚紙をください」
繁崎は一瞬驚いた顔をしたが、机を見ながら
「次は気を付けろ」
と吐き捨てるように言った。
私は恥ずかしさで顔を少し赤くさせながら、ありがとうございますと小さくお礼を言う。
これで終わらせてくれるのかと思ったが繁崎はペンを走らせながら、私に尋ねてきた。
「進路希望の紙。まだ出してないんだってな。お前の担任の上杉先生が困っていたぞ。もうすぐ三年生だぞ。学年トップの成績のお前ならどの大学だっていけるだろうに。やりたいことがないのか?」
「すみません……」
謝ることしかできない。
もちろん、私にはやりたいことがある。
それでも私には叶わない夢。私が浮かない顔をさせていると、繁崎は何か察したのか少し心配そうに私を見る。
それでも、彼の目は冷たく閉ざされているように感じた。
「何か困ってることがあるのか? 上杉先生に言えないなら、俺が聞くけど」
「いいえ、ありません。上杉先生には少し待ってもらっていますので。来週には出しますから」
「萩本……」
彼が何か言おうとした時、廊下から繁崎目当ての女子たちが英語の参考書を持って職員室へぞろぞろとやってきた。
「透先生ー。英語教えてくださーい!」
「わからないことだらけで困ってるんですー」
「透先生。お願ーい」
話はこれで終わった。
私は逃げるなら今だと思い、繁崎に一礼すると職員室から出る。
遠くから繁崎が私を呼んだような気がしたが、気のせいだと思うことにした。
繁崎の冷たいところがかっこいいと勘違いしているのだろうか。それとも少しばかり顔が整っているからなのだろうか。ファンクラブができるほど彼は女子生徒に好かれている。
彼はきっと何不自由なく生きてきた人間に違いない。学生時代はサッカー部のエースで、県トップの良い大学を出ているという噂だ。それでいて独身とは、よほど性格に問題があるのだろう。
どっちにしても私とは縁遠い存在だ。
そんな先生に相談したところで、今置かれている状況も、家庭環境も、私の気持ちもわかるはずもない。
午後の授業が終わり、私は商店街の本屋で立ち読みをして時間を潰した。
なるべくアパートに帰りたくない。
アパートに帰ってもあの人の小言を聞かされるだけだ。そろそろ進路希望の紙を出さなければならないが、期待通りにはいかないだろう。
来週には出すと言ったからには、話はしなければならない。私は気が重くなって、ため息とともに本を閉じる。
本屋の店長が迷惑そうにこちらを見てきたので、私は外に出て仕方なくアパートに帰ることにした。
外は、雪が降り始めていた。今年は雪が多いと聞いていたが、毎日のように大粒の雪が降り注いでいる。
積もりそうな雪だと手のひらを伸ばして小さな雪の結晶に触れる。冷たいそれはじんわりと手の中で溶けてなくなった。
また手のひらに雪が落ちてきて、次はぎゅっとそれを握りつぶす。一瞬だけ冷たさを感じ、心が少し落ち着いてくる。
心の不安をこの冷たさで固く閉ざしてほしいと心から願った。
夕暮れもすっかり過ぎて辺りは暗くなってくる。アパートが近くに見えてきたところで、またあの街灯が不気味なオレンジ色を光らせて私を待っていた。
またいた。
あの街灯の亡霊が。
その黒く蠢く何かをじっと見つめながら、私はアパートの階段を登った。
家には既にあの人がいて、ビールを飲んでいる。
今日は私の進路について話さなければ。
私は黙って自分の部屋に入った。