「成長してね」と佞悪が告げる。
冷や汗とは、このことか。おれは拳を握り、くちびるかんだ。やるかやられるかの世界、とは限らない。だが精神を蝕まれる可能性が極めて高いということか。しかも、おれひとりの問題ではなく、こちらにいる音楽仲間のひとり、仲富海帆とも絡んでいる。いたずらに畏怖する必要はないだろう、それに三度目だ。二度あることは、三度ある。そう慰めて乗り切った学級裁判から何年経過しているだろう。もう昔のことさ。だが忘れられない。忘れてはイケナイコトだと思う。忘れてはいけないが、思い出すほどではない。思い出す行動は記憶の更新に繋がる。思い出せば思い出すほど鮮度が保たれていく。思い返せば思い返すほど彩度が高まる。それは、もはや最初の体験そのものを凌駕して他の銀河の物語になってしまう。気をつけないと、記憶なんて書き換わってしまう。都合のいい解釈は難局を乗り切るためには必要だが、正常な日常を取り戻したら慎まねばなるまいて。
いま、まさに佞悪がメッセージを届けに来てくれた。成長してね。成長してね?
「どういうことなの」
疑問を声に出したのは仲富だった。彼女にも見えているし聞こえている。佞悪の存在は、おれのひとりよがりの妄想の産物ではないってことだ。もし仮に、おれと仲富ふたりだけが共通の妄想空間で静かに狂っているのだとしても、こういうことを共有できる人がいるのは幸だ。しかし汗が噴き出してくる。おれは仲富を観る、あきらかにさっきまでとは違っていた。どこか焦燥とも言えそうなほどの、衰弱に似た表情。おれは油断したか。忘れそうになるが仲富は能天気なだけの女ではない。おれと戦地を生き抜いた同士だ…といっても、受験戦争という名の社会的にはどうでもいいような戦闘だったけれど。中学受験のために生きた日々を忘れはしない。だが、思い出しすぎて心を病むことがあってはならない。あれほど自戒してきたのに、いま自分の弱さと愚かさが露呈する。どうすればいいのか、見当もつかない。ありとあらゆる選択肢があるとしても、どれがどうでどれを選ぶべきか検討する余裕もない。
ただ、あるがまま。
冷や汗を自覚し、隣の同志を気遣いつつも、自分のことだけで精一杯。
なにが起きる。
いや、なにが起きた。
「でも大丈夫よ、安心して」
おれの不安を見抜いたみたいに佞悪が言う、ほんとうに優しげな声だ、はかなげに感じられるほどの穏やかな口調、さらに続けて言う、「わたしだけでは心もとなかったから強力な助っ人も用意してあるの。紹介するね」
紹介するね…助っ人?
強力な助っ人って、いったい。人なのか神なのか、使い魔か。あるいは。
「まって、ネーちゃん」すると仲富が大きく叫んだ「もしかしたらコレって、いまわたしが巻き込まれた事件と関係あるの?」
事件という言い方が気になる。それに、いつもの仲富とは思えないほど切迫した印象だ。思わず、
「海帆」
と名前で呼んでしまった、
『え。どうして』という顔でこちらを振り向く仲富の瞳からは、一縷の涙があふれていた。
『え。なぜ』と疑問に感じるおれが再度意識して仲富の顔を見ると、すでに涙は流れていなかった。見間違いか。
「みぽり、会ったことある」
と佞悪が言った、「いまは思い出せなくても記憶ひきずせり出せばわかるよ。なつかしいね」
「思い出せなくても?」と仲富が言う「まさか」なにかに気づいたのか「ひょっとして?」おれの目には怖気づいている少女の姿だ、あくまでも幽霊屋敷のレベルで怖気づいているだけだが「彼?」
彼。彼?
いま仲富が、彼と言った。
誰?
するとどうやら会話が成立したらしく、
「ええ」
佞悪が誇らしげに胸を張った。ビキニのような胸元で房と房との谷間が強調される。あやうく佞悪さまの乳房を触りたいと願いそうになってしまった。あわてて視線をそらす。仲富の胸が見える。体型が浮かびあがらない服装だというのに、なぜか裸の胸を想像してしまう。想像だけならいい、よくあることさ、だが…だがな。
おれは自分の体の変化を実感せずには、いられなかった。待てよ、おい。いまは、そういう状況ではないだろう。いくらなんでも、ひどすぎる。もともと想いや考えや意識とは関係なく、あれは固くふくらむものだが、いまここで?
おかしいだろ、どう考えても。
聞いたことがある『人間は命の危機に陥ると子孫を残そうとするらしい』と。
男の場合は精子を飛ばそうとするらしい。その準備は無意識領域で迅速に進行するため、自分で気づくことがない。敵を欺くならまずは味方から?
さまざまなエピソードの断片が脳裏を過ぎる。
どっちにしろ、これはこれで困ったことになった。
「ねえ、蓮」と声が聞こえた、仲富だな、でもおれは顔を見ないというか観れない、妄想の乳房の擒になってしまったんだよ。たのむ、許してくれ。
おかまいなしに仲富が言う「わたしこの場面いつか夢で見たことある」
ほう、夢ですか。そりゃまあ生きていればそういうこともありますな。
「ごめん巻き込んで」と仲富が言う。「これ、わたしの悪行だわ」
なにがなんでどういう悪行なのか想像もつかないが、「そうか。わかった」と、おれは答える「大丈夫だ安心しろ、おれがついてる。おれは海帆の味方だ」
自分で言っておいて申し訳ないが、まったく心の籠もっていない励まし。ほんと、よく言えるよな、おれも。でも不思議。そう言ったら言ったで、その気になってきた。
おれは仲富海帆を護る。なにがあってもだ。
隔離されつつも同時に存在できている異空間ならば、おそらく時間を気にすることはないだろう。それはそれでいい。だが、おれにとって初めての体験となる要素に関しては、コワイ。
「ねえ、そういうのやめてくれる?」と仲富が言う「でも嬉しい」さっきまでの佞悪さまとの会話が影響しているのだろう、少し音程が高くて歌っているように聴こえてきた。
ねえ、そういうの、か。おれは自問自答。やめてくれる? ハイハイおおせのままにです。でも、ウレシイって。ななにそれ、よくわかんないけど嬉しいって言ったよな?
こっちまで、嬉しさがこみあげてくるよ。
なあ、佞悪さま。
いったい、おれたちに、なにが起きるっていうんだい。
「いまから教える」
まるで心の呟きに反応したような言葉だった。佞悪は優しくない、けれども悪を以って悪を征する資質が人を救う。
どうやら、夢ではなさそうだ。途中どことなく『これは白昼夢ではないのか』と
感じることもあったが、幻でもない。かといって普段の日常生活の延長線上だとも言い難い。もうひとつの現実、パラレルワールドに移行する手前の交差点。おれは思う。思うだけで伝わるのなら、これはこれで会話が成立するかもしれないからだ。
佞悪さま、おれの罪ですか、海帆の罪ですか、それとも。
おれは名前ではなく姿を思うことにした。
あの髪、まさに視線を奪う髪、そそり立つ雑草のようでもあるし、水に流れる糸のようでもある髪、その豊かな実りを体現している領域は全身をおおいつくす空気そのもの、見えなくもあるが感じとれるものでもある。スカートからチラチラする、ふとももの裏側の陸続きである丘陵地。白旗は端すら見せずに、黒幕さえ黙り込む。仲富海帆の従姉妹、あきらかに濡れ衣だそうだがまだその真相の扉が閉まったまま。あのとき一瞬だけ目が合ったような記憶。再生された少女の姿、その少女を思い浮かべるとおれは少しだけ心臓の鼓動が早まった気がした、すると佞悪さま。
「ええ」
なにもかもを見抜いていらっしゃる、その声。
おれは黙って頭を垂れた。