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佞悪

 「寄り道って?」

 どうせ時間調整だろう、いやまあだからこその寄り道なのか、だとしても確認しておきたい、「ひょっとしてなにか用事あったのか」おれは質問した。

 「うん」と歩き始めた仲富は「そういうわけじゃないんだけど」と語り出して「できれば蓮と打ち合わせ、しておきたいから」しゃべりながら髪を触り、とくに風が吹きぬけたわけではないがスカートをおさえる仕草しぐさをする。手のひらをひろげて、スカート越しに腰というよりお尻をでているようにも見えた。その役目、おれが代わってやるぞ! おれは言う、

 「ひょっとして、例の話?」

 「そ。ひょっとしての、ひょっとする話」

 「打ち合わせ、必要なんだね」

 それには答えずに仲富は歩くスピードを落とした。ぴったり横につかれる。肩が触れた。そのまま胸もあててほしい。おれは言う、

 「だけどさっきの話題を歩きながらとかはチョットあれだなあ?」

 そんなことは百も承知という顔で仲富が答える「核心にはれないよ。固有名詞も出さない。人も出来事も特定できるような要素は言わないから聞いて」

 「わかった」おれは確認する、ひょっとして「聞くだけで?」いいのか。

 「うん」仲富が首を動かさずに答えた。

 信号待ちの交差点で、まったく車が走行していない。どういうタイミングなのか他に歩いている人の姿も見当たらない。まるで別世界に送り込まれたような緊迫感。なにもない、誰もいない、だからこその緊迫感、それゆえにひときわ強調されてしまう緊張感。

 おれは聞きたいことも言いたいこともたくさんあったが、黙ったままでいることにする。なにしろあの仲富が『聞いて』とピシャッと言った。なにかある。なにもないのなら、なにもないがゆえの緊迫かもしれない。どちらにしても数秒前には実感できなかったことばかりだ。やはり情報を得るには我慢コストが必要だ。

 聞いて…彼女のこと?

 聞いて…事件のこと?

 それともまったく別の…

 けたたましく旋律が走る。信号が変わった。青信号を見るたびに『緑だよな』と思うし『みどりなら青ってことでいいのか』と納得もする。おれは歩幅を調整する。仲富も意識しているかもしれないので、そこは遅くせずに速くせずに、だが急ぎ足っぽく。

 シャツの袖から空気が背に向かってはしり、汗がひいていくのがわかる。不自然な汗をかいていたのかもしれないと気づいた。宇宙から見たら、どんな感じ。こんな小さな存在感、怪獣の足で踏まれたら潰れる生命力、大掛かりな工事で造営された街並みでさえプラモデルよりも貧相なミニチュアかもしれないな。ましてや悩みなんて、迷いなんて、小さなものだ。

 小さなものさ。

 けど、誰かからの言いがかりだとしたらそれは決して小さくない。

 おれは知っている。言い争いは壮大だ。どんなに、きっかけが繊細な絵空事で微弱な電気だったとしても、口論となれば莫大ばくだいなエネルギーが発声する。弱者は奪われ強者は潤う。いかに理性を武器にできても、人間が動物であることに変わりない。ネガティブであろうとポジティブであろうと宇宙を意識すればエネルギーの数値でしかないのだから。ああ、いまごろパラレルのおれはどうしているんだろう。もっと上手に人間関係の底なし沼をテキパキと泳いでいるんじゃないのかなあ。たとえ泥まみれになったってシャワーで流せばキレイさっぱりだ。気にすることなんて、なにもない。ただし泳げればの話。泳げないと地獄。いや、泳げるよといい気になって調子こいてると得体の知れない深みに足を持っていかれる。学級裁判は沼だよ、大人たちは『所詮たわむれ遊びのうち』と言うことがあるけれど、あんなもの遊びでもなんでもない。学びすら得られないかもしれない、本当に得体の知れない沼だ。本人が意識しなければ勉強になったとも言えないだろう。現実に、なにかを学んで成長したというよりも、いっそう深い悲しみを背負ったり、恨みつらみこじらせて悪意の糸に絡められることだってある。

 そうさ、学級裁判は人間対人間の儀式でありながら「佞悪ねいあく」を召喚しょうかんする。なんていったかな、あの神の名は。あの神の使い魔だという話だからな、佞悪ねいあくは。

 いつまで黙っているつもりだい?

 おれがしびれをらすのを待つ作戦だとしたら、残念だったな?

 ガマンヅヨイからね、おれ。そもそも長く待たされるっていうのは、惑星から惑星への移動を想像をすればかすんでしまう。つまり、たいしたことない。たいていの待ちくたびれは無意味で無力の裏返しだ。知ってるよそれも。知ってるけど、ばかやっちまうことってあるんだけどね?

 知っていることと賢く振る舞うことは同義ではない。知っていても愚かだし、賢くても間抜けだ。ありとあらゆる反義は両立する。しかも、同一人物の中で。

 ああ、しびれをらしてしまうよ、まじで。どうしようもない。おれは、くちびるをそっとあける、


 「なあ」「ねえ」


 同時かよ。同時だよ。おれと仲富の声が重なった。おれにとっては『まあ、よくあることのひとつか』という感覚だが、どうやら仲富には違うらしい。かなり驚いた表情をしている。その瞳孔は赤い凶星のようでもあるし、次の瞬間には清廉潔白な天使のような輝きを解き放つ。仲富は語りはじめた、

 「あ、ごめん」

 いやいや、「どうぞ」どうぞ、どうぞ、どうぞ!

 「うん」

 いいからいいからさっさとどうぞ!

 「あ、なあに。いま話なにか言いかけ…」と仲富が逡巡しゅんじゅんしているのが、よくわかった。

 いやいや、いまさらもう、そういうの、いいですから。いいからさっさと話してくれよ。おれは促すことにした、

 「こっちこそ、ごめん。おれのは、なんでもないから。そっちの話ちゃんと聞かせて?」

 仲富は動揺していたわけではないが「うん」と首を大きく、そのうなづきが大げさすぎるからコノヤローと小突こづきたくなるのだけれど、おれは我慢だ、すると彼女は続けて言う、「ありがと。でもゴメンうまく言えそうにない」

 横断歩道を渡りきる前に旋律が急停止して信号のあおが点滅する。上空のカラータイマーは思考を遮断して、いま目の前で起きていることだけに集中せよと申している。おれは耳をすます。仲富の呼吸にあわせて胸のふくらみが揺れた、ように見えた。なにそれ今日の、おまえ。めちゃくちゃ触りたくなるんですけど!

 と、おれは声を張りあげて叫びたくなったので、

 「ゆっくりでいいよ?」

 と、とてもとても小さな声で、マヨネーズをしぼるように話しかけた。あと少しだけ残っていて、けれどもうまく出てこないマヨネーズだ。本気の感情なんて、そんなもの。いざ叫ぶぞというとき、ギュっと強く握ってもちっとも出てこない。本能が助けてくれるから、かろうじてしぼり出すことに成功したとしても、マヨネーズのチューブのように人の心はしわくちゃだ。

 「あのね?」

 仲富が言う「もう忘れちゃってるかもしれないけれど、わたしたち、これ一度すでにもう体験していることなんだよね」


 「うん」

 思わず条件反射でうなづいてしまった。

 でもそれどういう意味。

 「普段もうすでに忘れちゃってますって顔して生きてるんだけど、やっぱり気持ちは割り切れなくて、覚えているのよ全部」

 仲富はスローに武器を使いこなす。その言葉はおれの心の壁を貫通した。いまはただの穴でしかないが、このまま銃撃が続けば壁もろとも崩れてしまうだろう。おれの封印が破られる。

 それってどういう意味?

 そう質問したいのは質問したいのだが、同時に誰かが『どういう意味もあるか、おまえがよく知っている意味だろ』とささやく。


 ああ、やっぱり。おまえか。

 「まったくもう。見てらんないわ」

 おれの目の前に、ほんものの佞悪ねいあくが現れた。久しぶりだ。会いたくなかったけれど、いざ再開してみると、とてもとても、なつかしい。


 「ごきげんよう」

 おれは声に出して言った。

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