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第6話  数秒の誘惑

 路地を吹く風に季節感は感じとれるが、空の青さだけは鵜呑みにしてはいけない。夏か冬かわからなくなるからだ。澄み渡る空気だからこその青さと、生命力みなぎる太陽の熱気をふくんだ青さ。しかも、じいっと見あげていると空なのか海なのかわからなくなる。あおさは眼球から内臓へしみわたり、あおさは視覚から聴覚にキラキラを及ぼす。きらめきは時間を停止して、いつものように退屈な出来事を永遠に続く罰ゲームのように錯覚させる。だが夏を生きることが罰ゲームだというのなら最高だ。最高すぎて笑っちゃえる。

 さて、いまのおれたちはどうだ。春のような浮かれ模様に夏ゆえの燦燦さんさんっぷり。しかも季節は梅雨直前。いつまでもこの華麗な天気は続かない。続かないと知っているからこそ、いちめんのパシィフィックブルーの空を賛嘆さんたんする。最高すぎて最高だよ。

 どんなにわずらわしい毎日でも、なにかと面倒で不愉快になることだってあるとわかっていても、おれは誰かと一緒にいる時間が好きだ。

 たとえ、厄介ごとを頼まれる破目はめになろうとも。


 「ねぇ、蓮」仲富が言う「お店を変えてもかまわない?」

 つい、いま、さっきまで、くつろいでいた店ではなく、別のお店。なにも問題ない。むしろ区切りがあっていいんじゃないか。これから話題が変わるわけだし、いきあたりバッタリの会話ではなく、おそらく相手も用意周到に構えている可能性がある。戦闘ではないが交渉に近い緊張感を持っていたほうがいいだろう。そらに相手は、あの瀬衣晶せいあきらだ。

 「もちろん、いいさ」

 おれは答える。いや待てよ、向こう側の有利な空気にちゃんと馴染なじめるのか。初対面であるならなおさら、その場所は吟味ぎんみすべきだ。投げ出してはいけない。まかせっきりなんて、もってのほか。おれは逡巡しゅんじゅんする。ほんの一秒足らずだろうけど。

 もうすでにお店は決めてあるっぽいが、


 「じゃあさ、モノレール前のカフェにしないか」

 と唐突とうとつに提案してみる。すでにお店は決定済みというなら動揺するだろう。動揺を超越して不機嫌になられれてしまうかもしれない。それでいい。それはつまり台本が出来あがっていることの裏返しになる。おれは確定勝負デキレースに引きり込まれただけの愚か者ってことだ。それでいい。情報を入手するってことは生産費コストがかかるってことだ。ここ、ケチるとろくなことにならない。節約したつもりがごっそり持っていかれるぞ。そこは慎重にいこう。おれは仲富の目を見る。なんて丸い眼球だ、その瞳孔どうこうはいったいどうなっているというのだ。イケナイ油断してしまいそうだイケナイその瞳に惑わされるな、どんなに信頼できる友人の顔をしていても仲富が女性であることに変わりはない。女性は女、女はどういう生き物だっけ。忘れたわけじゃないだろう?

 「まえから一度あそこ、はいってみたかったんだよねー」おれは軽めに浮わついた声を造りながら言った「なんかチョット格が上っていうか大人な感じというか」と要するに自分には背伸びしなければ入店できないタイプの雰囲気で、誰かと同席できるのならココロヅヨイってだけの話だが。


 「…ええ、そうね、奇遇ね、わたしもあそこがいいと思った」

 路地裏の鳥を眺めていたかのような顔から一変して、仲富は私立探偵のような表情になって、こちらを向く。いい表情だ。それでこそ、おれの好敵手。なんの容赦もしなくて済む。ああ間違いない。こいつは天然だからこそ徹底して用意周到で臨機応変に立ち居振る舞いができてしまう、くせものだ。しかも天然の薄絹うすぎぬかぶっているから、たいてい誰もが見落としてしまう。透明感は隠したいものを隠すためのものではない、隠しておきたいものをえて見せるための武装そのものだ。堂々とさらされた素肌は自然に表通りを歩いても不思議ではないが、シースルーのドレスはたちまち視線を集めてしまうだろう。ほぼ条件反射だ。動物的な行動とはなにかを考えたことがあるひとならピンとくるだろう。相手は見せてくる。見せつけて、しかも恥ずかしささえ隠そうとせずにする。あらわになった動機をそっと隠すには、恥ずかしさはうってつけと言えるだろう。「ちょっと待ってね」そう言いながら仲富は通話を始めてしまう「あ、わたし。うん。うん、そう、そうだよ、でね、場所なんだけどランナポール。うん。わかった。うん、じゃあね」

 通話中こちらを見ないまま。通話を終えても手元を見ているだけ。おーい、なんか言えよ、と思った次の瞬間、

 「じゃあ、あそこで」おれを見ずに仲富は自分の手元に向かって話しはじめる「蓮の希望どおりで」

 「そっか、サンキュ」おれは仲富の首のあたりに向かって言う「場所は知ってるみたいだな?」

 「ええ」すると今度はこっちを向いてから「せいちゃん、あそこのポンチが好きだから」

 フルーツポンチのことか?

 おれは尋ねる「前から知ってるお店?」よくよく考えてみれば、おれには敷居が高くてもお嬢さまには日常かもしれない。そこまで頭がまわらなかった。だがそれでいい。おれが興味を持っていても単独行動では入店できなかった場所であることに変わりはない。ゆっくりと過ごすことは無理だろうが、どんな店内なのか実際の様子を観察できる絶好の機会にできる。まさにチャンス。

 「何度か一緒に、あるよ」と仲富は答える「わたしは紅茶派でケーキ希望だけどね?」

 ふたたび視線そらして、おれではなく街路樹を見ている仲富は、ふうと声にしながら息を吐いた。紅茶派か。まあ、そうだよな? 

 その徹底して無表情な語り口は、これから発生する三者面談への緊張からだろうか。それとも彼女たちのなんらかの悪巧わるだくみを察知されないように演技しているのか。わからない。わからないけれど、


 「それは楽しみ~」

 おれは表情を変えずに、つとめて明るく発声してみた。


 「…だね」

 仲富はボソッ、くちびるをほぼ閉じたまま、ひとりごとのように声を放射する。読み取れない感情は、数秒間おれを困惑させる。ええと、さて、どうしたものかなこれ。おれは戸惑いながらも仲富の頭から胸のあたりまで何度も何度も眺めては『こういう視線てどれくらい気づかれてるものなんだろうか?』と自問自答する、『いやあ、ぼぼバレてるだろ確実に』『どうかなー』、すうっと涼しくも太陽の熱を含んだ微風ブリーズが吹き抜ける。

 ふわっと、彼女のスカートに一瞬だけ風がまとわりつく。だが安心していい、仲富は肌見せの天才だから下着をチラさせるなんてことはしない。どんなに薄くても透明感は迷子ぎみで、いかに短かろうとも高い防御性は変わらない。そうだとも、だからおれは安心して見ていられる。風は視認できなくても、揺れ動く葉や花の乱れで確認できる。仲富の動きもまた自然そのものだ。その揺れ動きは眺めていて飽きることなく魅せられる。そのため、いつものことだと勘違いしたおれは油断してしまった。

 「でもちょっと寄り道してっていいかな?」と仲富が言う「せいちゃんのほうがまだ時間かかると思うし」

 ああ、わかった。と声が出ない。あれ、なんだこれ、この違和感。いや、わかってる。わかっているけど、どうしていままで気づかなかったのだろう。

 彼女は視線だけでなく体も斜め向こうを見ている。その角度、この距離感。服の上から感じとれる胸のふくらみがおれを魅了する。秒速の攻撃。いや、おかしいだろ。いつも見ているし、初めてじゃないだろ。いやでも、それ、それって。

 いつも脚に魅せられて視線を奪われるタイプのおれが、どういうわけだか横から眺める胸模様に視力を拘束されてしまった。ほどよい透明感だが、観れば観るほど透けてこない。だが確実にそれは整えられた型であろう、もちろん整えられるべきふさが豊かに実っている。夏の収穫期に向けて色づく果実のように。雨よけの袋をかぶり、隠されていてもなお存在を主張する旬の果実みたいに。

 おれは息を吸っただけなのにノドで飲み込んでしまう。のどの奥でエンジンのかかる音がした。

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