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第66話 瑞稀、啓蟄(五) ―福岡 2023.3.11―

「……というワケ……でぇ……四月からの……異動……はぁ……あっ!」


 伸ばした指先も虚しく、真っ赤なキーホールドを掴み損なった私は床まで真っ逆さまに自由落下、するはずもなく、さかえさんが踏ん張ってくれてる命綱で宙ぶらりんになりました。

 残り五十センチをマットの上に落された私は、その気持ちよさを反芻します。この落下の浮遊感のためにボルダリングやってるのかも。そんな錯覚さえ起こしちゃうくらい。私、もしかしたらバンジーとかも好きなのかな。



 総務部のひとたちとの飲み会から三日。三月十一日土曜日の今日は、ひさしぶりに栄さんとホヤホヤに来ています。月に二、三回来るか来ないかで上手くなったりなどするはずもなく、私は未だに中級者コースの手前で足踏み中。でもいいんです。別に大会に出る予定があるわけでもないし、目指してる壁があるんでもない。こうして普段使ってない筋肉にちょっとだけ無理させて、ついでに体脂肪の燃焼なんかもできればいいなって程度だから。


 体育坐りで壁を見上げていたら、二の腕に冷たいのを当てられました。ひゃっと振り向くと栄さんがにやにや笑っていて、私にスポーツドリンクを手渡しとすぐ横にすとんと胡坐あぐらをかきました。


「そうなん。光陽ミツルん下に移ることに決まったんね」


灰田さんご本人からは聞いてたりしないんですか?」


 栄さんの興味なさげな問いかけに、私もちょっとだけ意地悪してみたりします。


「聞いとらん。そもそも、最近はうとらんし」


「えー? そんなんでいいんですか。知りませんよぉ。水曜日に来てた総務部のたちもみんな、めちゃくちゃ灰田さん推しだったし」


 煽る私は腕を伸ばして、ん-っと伸び。栄さんが少しでも焦ってくれたらいいのに。


「そんたち、瑞稀みずきと同い年くらいなんやろ。ミツルんごたオジサンのどこがええんやろな」


 なんなんでしょう、この鉄面皮は。いつまでも我関せずでなんとかなっちゃうほど、世の中甘くないんですよ!


「そげんことよりアレや、月波の小説。今回のもよかやなか。なんかゲド戦記んごたぁ古き良きファンタジーん匂いがするやなか」


 さすがは栄さん、旗色が悪くなりそうになったら即座に話題変えて攻め手に移る。しかも私が無視できない話題をちゃんと持ってきて。

 ていうか栄さん、それ、褒め過ぎ。


「今回のはですね、その辺の原体験のをすこぉし意識してまして。最近ので云えば『キノの旅』かな。っていうか、私の小説のことなんかどうでもいいんですよ。今は栄さんと灰田課長の話」


「あれ、エミールって女の子やろ。なんで『エミール』なん?」


 そこ、ツッコミます? ホント栄さん、自分の話題避けるためならなりふり構いませんね。まったく。


          *


 夕方は定番のパークライフ。今夜の栄さんはシフトに入ってるので、カウンター越し。土曜日だから、お店はそこそこ賑わってます。私の前にいつものコロッケを置いたらすぐに、栄さんも別の席から呼ばれてる。

 ひとりになった私は、ハイボールを舐めながら新しい仕事のことを考えます。金曜に届いた灰田課長からのメールには、こんな事が書いてありました。



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 仏具の総合商社としては国内トップクラスの我社ですが、今後の業務の拡大を考えるとやや色が付き過ぎている感があります。再来年に実施する予定の変革を前に、私たちはまず社内ブランディングの再構築に手を付けるべきだと提案しました。

 承認された私の提案書を基に新しくつくる広報チームの初年度の仕事は、ですから主に社内向けとなります。全国に散らばる支社、販売店、代理店とのリレーションを組み直し、彼らの声を吸い上げつつ私たちの考えを浸透させる。そんな仕事になるはずです。

 当面は私と波照間さんの二人体制なので、波照間さんの働きにも大きな期待がかかっています。なので、四月の配属までに我社の概要や組織、現状などをしっかり復習しておいてください。

 とは言っても、おそらくは初めての仕事だらけだと思いますので、サポートはしっかりやっていきます。ご安心ください。


 灰田光陽

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 入社五年目になるとはいえ、それまでは営業補佐しかやってこなかった自分がいきなり広報に大抜擢とか、正直耳を疑います。いったい私のどこに期待してるのか。だって私ときたら、企画を立案したりイベントを運営したりした経験もないし、人前に立ってなにか言うのも得意じゃない。そりゃあ、言われたことを真面目にこなしたり、効率のいいやり方を考えたりは普通にするけど。

 全国の支社や販売店って言ってたから、それらのひとたちともやりとりしたりするんだよね。私、そんなにコミュ力高くないよ。そんなの上手くできてたら直人なおとに振られたりしなかったよ、きっと。


 そんなふうに頭の中がぐるぐるしていたら、いつの間にか栄さんが戻ってきていました。


「うちな、ミツルにこげん言うたと。瑞稀はぼーっとしたとこもあるっちゃけど、考えなしのことはせんげな。いろんな情報ばちゃあんと仕入れて、うまいこと落ち着くやり方を探すタイプやから、って」


 私は顔を上げて栄さんを見上げました。あっけにとられてしまったのです。私、もしかして考えてたこと口に出てた?


「なんも言うとらんよ瑞稀は。けど、そげん顔しとったら何悩んどぉか丸わかりばい」


 うわあ。栄さん、エスパー? ていうか、私ってそんなにわかりやすいの?


「『白い部屋』な。あれ読んで思ったと。あそこん出てきた右も左もわからんごたなっとるハルは、年末の瑞稀げな。でもってケィはうちやろ。ハルは足場ものうならかして無重力状態でプカプカ浮いとぉことしかできん。もうパニックや。でも、無茶はせん。落ち着いて情報ば集め、正直に話して他人に聞き、いっちゃんよかやり方ば探そうとする。それこそが瑞稀や、ってな」


 相槌すら打つこともできず、私はただ、栄さんの私についての見立てを聞き続けました。


「ミツルが今欲しがっとるスタッフは手ぇが早うて要領んよか奴やなか。瑞稀、安心してよかよ。ミツルはちゃんと瑞稀ば育ててくれるけん」


 栄ちゃんちょっとこっち、という声に呼ばれ、栄さんは私の前から消えました。でも私は、今そこにいた栄さんの幻影から目が離せませんでした。

 ちょっと泣きそうです。

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