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第38話 瑞稀、立春(五) ―神戸 2023.2.11―

「ちょっと。これはめちゃめちゃ美味しいじゃないですか」


 対角線に座る谷下さんが頬張ってた焼肉を飲みこんで、感嘆しました。

 ホント美味しい。流石は神戸牛。通り名は伊達じゃないですね。歩き疲れた身体に生ビールと美味しいお肉が沁み込んでいくのがわかります。他のふたりも頷いてる。



 清水さんが予約してくれていたのは、三宮はずれの住宅街の一角にある『海岸通り 味一』という炭火焼肉のお店でした。旅行者ではない、地元の人たちが休日のちょっと贅沢な夕餉を愉しむ。そんな感じのお店です。


「ありがとう清水さん、これは良いお店だわ。見て。こんな早い時間なのに、もう外で待ってる人がいる」


 向いに座るさのさんの視線の先を追って振り返ると、確かにお店の外にも人影が見えます。そうしてる間にも、清水さんと谷下さんが七輪の上にせっせと肉厚のお肉を乗せている。

 お肉は正義。美味しいって最高。私は至福の真っ只中にいます。


          *


 常設展を観終えて一般公開エリアを巡っていた私たちの後ろには、いつの間にか谷下さんと清水さんがついてきていました。神戸の学生さんたちの卒業制作展をぐるりと回り、屋外で全身銀色の巨大な女の子像に驚嘆し、運河沿いのボードウォークをゆるゆると散歩するころには、私たちはもうずっと前からお友だちだったみたいになってました。そう。例えて言えば、修学旅行の自由行動班みたいな。

 清水さんにはちょっと申し訳ないけど、女子三人っていう構成も私に安心感を与えてくれてます。まあ想定ではお姉さまふたりについていく私って算段だったんですが、ふたを開けてみたらお姉さまに先導される後輩女子ふたり、みたいになってましたけど(笑)



 電車移動も乗り換えも、三宮の駅からお店への移動も全部清水さんが班長さんやってくれてたし、地図のチェックも谷下さんが一緒に担当してたから、私はさのお姉さまとお話ししながら後ろをついていくだけ。なんてラクチン。

 出発前に抱いていたオフ会への不安なんて、もう欠片も無くなってます。


          *


「そういえば、月波さんってリアルではボクっ子じゃないんですね」


 何杯目かのビールを手にした清水さんの鋭い指摘に、私は苦笑いするしかありません。


「騙しててすいません。アレはキャラ設定なんです。月波で誰かとリアルに会うなんて、ぜんぜん考えてなくて。はっきり準備不足です」


 なんとなくそう思ってた、と、さのさん。


「だって普通のボクっ子と違って、月波ちゃん、言い回しが丁寧なんだもん。ホンモノのボクっ子は語尾とかももっとぞんざい」


「ですよね~」


 向かいのふたりが可笑しそうにしてるから、ま、これもいいかなって思っちゃおう。


          *


 神戸牛、すごかった。めちゃくちゃ美味しくて、ご飯もの食べてないのにお腹いっぱいになっちゃいました。私だけじゃなくて、さのさんも谷下さんも。そうしたら、デキる男、清水さんが提案してくれるのです。


「まだ時間も早いし、せっかくだからポートタワーの夜景、見に行きませんか?」



 またまた清水さんの先導で、四人は夜の神戸港に到着します。博多港の夜景なら私も観に行ったことはありますが、やっぱりここは一枚上でした。

 対岸の埠頭の先には半月型のホテルがお部屋の明かりを散らばせてますし、客船埠頭の施設やその向こうの高層ビルも、宵闇を背景バックに煌びやかに輝いています。目玉のポートタワーは、残念ながら改装中で光ってませんでしたが。


「見てください。あの辺りがですね、キングジョーとセブンが戦った海なんですよ」


 埠頭の先を指差した清水さんが、少し早口で熱く語っています。ですが、事情のわからない私たちは、へぇ~とかふぅんとか覇気のない感嘆を返すだけ。当てが外れてしょんぼりする清水さんの消沈ぶりが可哀そうで、ちょっと笑えました。


          *


 ホテルに帰り着いたの午後九時を回った頃。フロントで鍵を受け取った私は、このあと谷下さんとさのさんのツインルームで開催される部屋飲みに備えて一旦部屋に戻りました。

 栄さんはまだ帰ってきていません。たぶん翔子さんとのお話に花が咲いているのでしょう。部屋飲みに誘われているのでお部屋を離れるからホテルに戻られたら電話してください、とだけLINEした私は、お土産の博多通りもんと冷蔵庫に仕舞っておいたオイル漬けチーズ、それにレモン酒のボトルを抱えて会場の部屋に向かいました。


 そのときの私は、栄さんの荷物が部屋から消えていたことに気づかなかったのです。

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