その事件を私が知ったのは月曜の夜の十時前でした。ダウンタウンの松ちゃんが司会をしてるバラエティー番組を背景に、140字小説の国際宇宙ステーションでハルに話しかけているケィさんの場面をツイッターにアップしていたところ、急にTVからアラートが鳴ってテロップが流れ出したのです。
――JR博多駅で刃物による傷害事件。刺された女性は搬送先で死亡を確認。容疑者は現在も逃走中――
急いでチャンネルをニュースに切り替えたら、すぐに続報に当たりました。
事件があったのは夕方の六時過ぎ、場所はJR博多駅前にある朝日新聞ビルの前、大博通りに面したセブンイレブンのすぐ傍だったようです。六時過ぎといえば私が会社を出たのもだいたいその頃。置いていた透明ビニール傘を差して駅に向かってた時間じゃないですか。私の会社の最寄り駅は中洲川端だから博多駅とは少し離れていますが、それにしたって地下鉄でほんの二駅。まさかそんな近くで女の人が刃物で刺されて殺されるなんて恐ろしい事件が起こってたなんて。しかも犯人は今も野放しのまま。発生から三時間以上経っているし、この部屋の辺りだって十分に潜伏先の範囲に入っています。私は玄関に行って、いつもは使わないチェーン錠を掛けました。何か足りないものがあっても、今夜はコンビニに行ったりするのは控えよう。
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翌朝の記事でも犯人逮捕の報はなく、不安な気持ちのまま出社しました。お昼に外に出るのは怖いからとちょっと頑張ってお弁当をつくり、夕方の降雨予報に合わせて昨日の置き傘も持って。本当は、こんな日はリモートにさせてくれればいいのにって思いながら。
自分の席で粗末なお弁当をもそもそ食べながらインターネットのニュースを見ていたら、亡くなった女性の情報が上がっていました。お歳は三十八歳でちょっと派手な感じの綺麗な方。前に交際していた男性に付きまとわれていたらしく、警察にもストーカー被害で何度か相談していたという話でした。ほぼ間違いないストーカー殺人ということに、私は少なからず衝撃を受けました。男女の交際のもつれというものは、これほどまでも深い闇を内に秘めてしまうものなのか、と。
ネットニュースのコメント欄には警察の役立たずぶりを批難するものが多かったけど、私はそれ以上に、相手を殺してしまうほどの執着の異常性がさほど話題にもならず受け入れられていることの方に驚きと怖さを感じたのです。恐怖を訴えていた女性に的確な予防対応ができなかった警察はたしかに無能でした。それでも今回一番批難されるべきは、好きだったひとの命を好きだったという理由だけで暴力をもって奪い取った犯人のはず。なぜその当たり前のことに辿り着かずに、多くの人による指摘と批判が周りの環境や大きな制度の不備などに終始するのでしょうか。私には、コメントしている彼らが今回の事件をネタにして持論を言い合っているだけにしか見えません。
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夕方の終業タイミングを図ったように、栄さんから電話が掛かってきました。すぐ近くにある彼女のシェアオフィスからで、待ち合わせて一緒に帰らないかというお誘いです。ひとりよりも二人の方が安心だし、まして相手は栄さん、下手な男性よりもよほど頼りになります。落ち合う場所は、前に私が小銭を散らかしたコンビニということで。
例の犯人はまだ捕まってないからちょっと不安ではあったけど、栄さんに請われてでは断れません。まだ火曜日だというのにパークライフに来てしまった。
「通り魔やったらとても誘えんやったけど、ピンポイントのストーカー事案やし問題はなかよ」
栄さんの説得に苦笑しながらも、私は思わず納得してしまいます。確かに誰彼構わずという狼藉でないのなら、まるで接点のない私たちに被害が及ぶことは考えにくいですね。仮定に仮定を積み重ねたようなそんなスカスカな裏付けで安心してしまう私たちの危機意識は、成人女性としてはかなり危険なレベルかもしれませんが。
「亡くなった彼女、うちと同い年やったっちゃ」
カウンター越しにハイボールのジョッキのお代わりを受け取りながら、栄さんは話し始めました。
「もちろん知らん人やし、他に共通点があるわけでんなか。けどな、こん年齢でん恋愛の重さっちヤツは、ようわかっとぉつもり」
私は曖昧に頷きます。いくら記憶に新しいとはいえ、直人との先月末の破局しか経験のない私にとって、ひと回り上の世代の恋愛の顛末などはそれこそ想像の埒外です。
「もう次は無かね、って思うっちゃ。スパっと切ってすぐ次にって感じになれりゃあよかっちゃけど、実際はそげん軽やかにはいかんもんねえ」
栄さんは事件直前の二人を写した近隣の防犯カメラ映像を見たらしい。そぼ降る小雨の中、一本の傘の下で並んで歩く男女。ほどなく男が女を路上に突き倒し、予期せぬ凶行におよぶ……。
「被害届ば出すくらい近くにおりとうなかったはずなんに、なんで相合傘なんかしとぉとか」
ジョッキをひと口傾けてから、栄さんは今まさに自分が批難した彼女の弁護をはじめました。
「頭ではわかっとぉ。こん人ではあかんって。ばってん、思うってしまうんやね。今度こそ心入れ替えてくれとぉかもって。次んチャンスが期待できんけん、今ある手札にすがるしかなかとよ」
アラフォーの恋はしゃーしかねぇ。栄さんは呻くようにそう呟いた。私はそのときはじめて、彼女の年相応の貌を見た気がしました。
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翌十八日の午後、容疑者は中州の路上で確保されたとの報道がありました。犯行直後から翌日の昼までは、出口こそ違うものの私が日々利用している駅に至近のネットカフェに潜伏していたそうで、あらためて背筋が凍りました。
彼女の魂が安らかに登ってってくれてたらいいね。という栄さんからのメッセージを見て、私も強く頷き返します。本当に。