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第11話 瑞稀、小寒(三) ―福岡 2023.1.9~14―

 空港線東比恵駅の地上出口はコンテナを重ねたみたいな不思議な形をしています。


「ここや、ここ!」


 ガードレールに腰掛けて手を振る栄さんを見つけ、私は駆け寄りました。サッカーの控え選手みたいな長い上着(グラウンドコートって言うんですね。あとで知りました)の裾からスニーカーを覗かせた栄さんが足元のスポーツバッグを肩に背負い上げて歩き出すので、私も小走りでついていきます。夕方と呼ぶにはまだ早い午後三時前。軽装で来いとの指示だったので、私はトレーナーとデニムパンツにダウンベストを着て、その上からさらにダウンジャケット。振袖やスーツが目立つ地下鉄車内では申し訳ないくらいに地味で不愛想な格好でしたが、人通りの少ないこの辺りならさほど気になりません。デイパックの中身は、とりあえずのタオルと替えの靴下だけ。


「瑞稀は初めてやけんなんも持っとらんやろ。ジャージ持ってきちゃったばい」


 靴は借りればよかけんと言い放ち、栄さんはずんずん進みます。大きな通り沿いに建つジョイフルの脇を右に入って住宅街をしばらく歩くと、黄色い看板を掲げた倉庫みたいな建物が現れました。


 ボルダリングジム・ホヤホヤ


「今日は初じりや」


          *


 ジムの中は寒過ぎず暑過ぎずの快適な気温で、雑然とした受付に人のよさそうなおじさんがひとり佇んでいました。栄さんを見て破顔した彼は、私にも軽く会釈をします。


「おいちゃん、初心者連れてきたっちゃ。優しゅうしたってな。瑞稀、このおいちゃんボーっとした顔しとぉけど、壁じらせたらもんすごかっちゃん」


 双方に向かって雑だけど的確な紹介をしてくれた栄さんは、登録カードを書き終えた私を引っ張って奥の部屋に連れていきます。



 なぜか壁一面の棚にガンプラが飾られた白い部屋で、ジャージに着替えた私はふたりから説明されました。


「要は壁登りです。壁に埋め込まれたホールド、いろんな形をした突起物ですね、それに指やら爪先やらを引っ掛けて登って行くスポーツです。壁の難易度や高さ、スピードを競ったりもするけど、基本的には独りで黙々とやる自己満足系って言っていいかな」


「面白いっちゃよ。うちらは壁登りすることを攀じるっち言うっちゃ」


 おいちゃんこと道原数豊ミチカズさんの説明に栄さんが被せてきました。


「こことは三年前の取材からの付き合い」


「あの頃の栄ちゃんは初々しくて可愛かったなあ」


「今は可愛いないんかい!」


 漫才のような栄さんのツッコミに動じることなくミチカズさんは私に顔を向けます。


「栄ちゃんも今でこそ古株と一緒になって難しい壁攀じってるけど、最初は真っ新の素人だったもんね。波照間さんも焦らずできるとこから試してみればいいから」


「こんなこと言うてるけど、このおいちゃんばりスパルタやから気ぃつけて」


 真面目くさったミチカズさんの言葉にまたまた栄さんが茶々を入れてました。


          *


「ほい」


 栄さんが差し出してくれるスポーツドリンクを受け取って、私はひと息つけます。十数回目のトライでようやくトップホールドにぶら下がることができた初級コースの壁を見上げ、私は静かな達成感を感じていました。

 クッションにもたれて座り込んでいる私の横に腰を下ろし、栄さんは同じように壁を見上げて口を開きます。


「なかなか楽しいもんやろ」


 頷く私。そして軽く頭も下げます。


「ありがとうございます。昨夜からこっち、ちょっともやもやしてることがあって」


「今朝ツイートしとったアレね、気持ち切り替えたいって。気分変えるんなら壁攀じりが一番やろって思ったったい」


「おかげですっきりしました。やっぱり身体動かすっていいですね」


 栄さんは胸を張って見せてから、首に掛けたタオルでこめかみの汗を拭いました。


「ここな、よかジムなんやけどシャワーは付いとらんと。このあとスパにでも寄らん?」


「いいですね。あ、でも途中で替えの下着だけ買ってもいいですか」


「ええよ。もうぐっちょぐちょやろ」


 次からはちゃんと持ってきんしゃいと言って、栄さんは呵々と笑いました。


          *


 問われるままに語り始めた昨夜の話は、栄さん行きつけスパのパウダールームからはじまっていつものパークライフのボックス席にまで持ち越されました。


「なにその直人って男、バチクソ野郎やなかと! 湯布院旅行キャンセルしたとか大嘘こいて。そんなん一緒におってもいつか必ず浮気してくるばい。別れたんは瑞稀、大正解やって」


 栄さんは私の代わりに、何度も直人のことを罵ってくれた。彼女の憤りに、私は救われる思いがしたのです。

 不義理され捨てられた理由は全て、私の根本的な努力不足。そもそもが私には恋愛をする基礎的能力がごっそり欠けている。私は、いわば間違って店頭に並べられた欠陥商品だった。そう結論付けてしまいがちな私の弱気な裁定者の背中を押しのけて、直人やあとから来た彼女や状況といった私以外の要因に目を向けることで私への肯定感を肯定できる、そんな力を分けてもらった感じ。


「あんなぁ瑞稀、うちも今までいろいろと辛かことがあった。ええ歳やけんね。親友に彼氏獲られたこともあった。そんなんでも顔上げて前向くるとがよか女やって思っとぅとよ」


 おかげでこの歳まで独りもんやけどね、と栄さんは笑う。深みのある、とてもいい笑顔。私もがんばらなくちゃ。落ち込んで自分を卑下してたってなんにもはじまらない。


          *


 木曜日の夜、はじめてスペースに参加した私は、そこで小さなコンテストの話を聞きました。スペースというのはツイッターの機能のひとつ。だれでも自由に開設できるラジオ番組みたいなもので、参加者もただ聴くだけでなく会話に参加もできる音声コミュニケーションです。

 世界を広げるための第一歩、なんて大仰な気持ちではじめたんですが、思ってた以上にみなさん友好的で初心者の私にも優しくって。で、そのやり取りの中でおひとりが紹介されていたのです。


『匿名超掌編コンテスト』


 五百文字以内の掌編小説を募集して、それらを作者匿名で公開していいねの数で評価するという自主企画だそうで、主催者の方と相互フォローになればすぐにでも出品できるんだとか。事前受付の締め切りは週末十五日の夜と近いのですが、原稿用紙一枚ちょっとくらいなら私にもできなくはないなって。

 題材は……と考えて一番最初に浮かんだのは直人とのことでした。どんなふうにはじまってどのように育んだか。そして、どうして黄昏れてしまったのか。そんなことを言語化してみるのは、私のリハビリになるかもしれない。匿名の林の中であれば、それが私の独白であることなど誰も気づくことはないでしょう。仮に直人や彼の今の恋人がテキストを目にしたとしても。


 私はまだこだわりを持ってる。でもそれはきっと私に必要な過渡期。考えると苦しくもなるけど、そう思えることで、自分がちゃんと血の通ってる柔らかなヒトなんだなってわかって少し安心するのです。


          *


 土曜日の午後、投稿用の小説に頭をひねっていたら、島のおばぁから荷物が届きました。中味はいつも通りの極彩色のTシャツやアロハにくるまれた缶詰や瓶詰や粉ものでしたが、今の私はまさに強力な応援を受けた気持ちになります。

 このあとはさっそく送られた粉を使って、サーターアンダギーをつくろう。

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