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第10話 笠司、小寒(ニ) ―杜陸 2023.1.4~11―

 杜陸もりおかに戻ってもすぐに卒論に取り掛かる気にはなれなかった僕は、荷物も持ったままでカジ先生の部屋に直行した。週明けの成人の日まで冬休みが続く先生は迎え入れるだけしてすぐ寝直したので、僕は先生が録り溜めしているアニメを勝手に流してから炬燵に潜り込んだ。


          *


 目が覚めるとテーブルの上にはバーボンウイスキーのセットが用意されていた。

 ガラス戸の向こうの台所に人の気配がする。たぶんカジ先生だろう。ポケットを探りスマホを取り出すと、もう六時半を回っている。これ、夕方だよな。そう思いながらツイッターを開く。タイムラインから午後であることが察せられひと安心。ついでに流れてきたタグをひとつこなす。好きなバンドを十個挙げるって奴。こういう感じの輪郭を晒す自己紹介って割と好き。



「起きたか」


 大皿のドリアと取り皿を持ってきたカジ先生が定位置に座ってリモコンを点けた。先生の正面のディスプレイが復活し、ぼっち・ざ・ろっくが始まった。スマホを置いて、僕も起き上がる。


          *


 卒論がよほどプレッシャーなのか、七日の昼間まで上がり込んでいたカジ先生の部屋に、その日の夜にもまた訪れてしまった。チェンソーマンの続きが見たかったのは間違いないが、なによりもやらなきゃいけないことに向き合うのを先延ばしにしたかったのだ。


 それでも仕事をさぼるわけにはいかない。

 八日の夜は、年末に街頭のあちこちに仮設した年賀飾り露店の撤去作業で遅くまで働いた。

 市内北部の最後の現場を解体しているときに雪が降ってきた。社長と菅原さんは車を取りに行ったので、その場に残ったのは僕ひとりだった。

 真っ黒の空から音も無く降ってくる雪。見上げてると、自分が雪のある空間に向かって登っていってるような気になってくる。絶対的なものなどどこにもない。あるのはお互いの向きと速度だけ。

 雪と相対して闇を飛翔していた僕をリアルに引き戻したのは、菅原さんの運転する軽のワンボックスだった。


 三人でささっと積み込みを済ませ、僕たちは事務所への帰路に就いた。ハイビームライトに真っ白の道が浮かび上がり、向かってくる雪片が舞い踊りながら後ろに流れていく。助手席の背もたれに腕を巻いてフロントグラスの向こうを見つめていたら、社長が缶コーヒーを差し出してくれた。礼を言ってひと口飲む僕に社長が尋ねてきた。


「リュウ、就職活動の方はどうなってる?」


 それもあった。僕のモラトリアムの爆弾は、もはや破裂寸前だ。あっちにもこっちにも導火線が伸びていて、しかもそのどれにも火口が迫り、あと僅かしか残っていない。


「まだ、目処すらたってませんね」


「言っとくがな、いくら便利だからってお前さんを飼う余裕はウチにはないからな」


 情けない貌で軽口を叩く僕に、社長は追い打ちをかける。


「たしかに杜陸はいい街だ。でもそれは余裕のある奴か、そうでなきゃお客さんの台詞だよ。大概は外に打って出るだけの度胸や根性も無く、ゆるゆるで傷を舐め合うことだけは得意なずぶずぶの地縁に縋って生きてるだけさ。俺みたいに」


 サイドウィンドウにもたれた僕は、黒に映る社長の横顔を目の端で一瞥した。


「でもなリュウ、お前は違う。縛られる地縁がここには無い。関東で何があって流れてきたのか俺は知らない。ただこれはわかる。お前はただの愛想の良い旅人なんだよ。この街で仲間や友だちや一期一会の知人が沢山できて、ああいい街だったな、また来ようって去って行く異邦人なんだよ。だからお前はこの街に留まってちゃいけない。二月が終わるまでは仕事を回してやる。だがそっから先は無しだ。さっさと部屋畳んで関東に拠点を建てろ」


          *


 あのあと自分がどう返したのか、はっきり言ってよく覚えていない。ただ、グズグズになってた頭の中に熱い棒をぶっ刺されたことは間違いない。

 月曜火曜を部屋に篭って真面目に卒論の考察に手を付けた僕は、十一日水曜日にゼミで開かれた卒論読み合わせ確認の集まりに参加した。



「リュウジくん。あんた見てると去年卒業してったサークルの先輩を思い出すのよね」


 数人で席に着いた午後のカフェテリアで、同じゼミのゆかりんが唐突に話しだした。

 それって例の婚約者のこと? と橋澤さんが割り込んできたのにそっちじゃなくてと手を振ってゆかりんは続ける。


「外資系の証券会社に入ってばりばりやってて、四月からはシンガポール勤務って人」


「それ、僕とぜんぜん違うよ」


「まあたしかに卒業時の到達地点で考えれば、先輩とリュウジくんじゃ雲泥なんだけどさ」


 ゆかりんはそういう傷つくことを平気で言う。でもそれはいつでも誰に対してでも一様なので、傍若無人ささえもがある種の個性として容認されてるから凄い。


「足場のしっかりしない優しさとか腰の据わってない非愛国心とか底の浅い利己主義とか、その辺を想起させるところがけっこう共通しててね」


「なんか、一個も誉めてないよね」


 そんなことない、とゆかりんは大袈裟にかぶりを振る。


「あたしにしてみれば最大限に褒めてるよ。実際その先輩のことはある意味尊敬もしてるし、助られたこともあったし。進路の結果とかとは関係なくね。とにかくリュウジくんは雰囲気似てるのよ、その人に」


 冷めたホットココアの最期のひと口を飲み干してから、ゆかりんはこう付け足した。


「横浜出身の人って、みんなそんな感じなの?」


 その人と僕のふたりだけ捉まえて横浜市民四百万人を語られてもなぁ。

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