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第8話 瑞稀、小寒(ニ) ―福岡 2023.1.8~9―

 その電話は日曜の夜にかかってきました。十年来の友人から。高校の三年間通して同級生だった絵鈴えりんとは一昨年初夏に挙げられた彼女の結婚式以来で、ほぼ一年半ぶりです。

 新婚生活の驚きや発見のエピソードを面白おかしく脚色する彼女の話術は相変わらずで、あの頃の放課後に戻ったみたい。以前と同じく聞き専の私でも楽しいのは昔のままで、笑ってるばかりのひとときが気持ちよく流れていました。


「そうそう、この前のクリスマスに旦那と湯布院行ったんやけど、そこで珍しいのに会ったんよね。瑞稀は憶えてるかな岡江くん」


 私の楽しかった時間は一瞬で凍りつきます。でも、電話の向こうには、そんなことは伝わらない。


「高校時代は地味系だった彼、なんかかっこようなっちょって、可愛い彼女連れてクリスマス温泉とか来てんの。まぁうちらもやけど」


 絵鈴えりんの笑い声がどこかひどく遠くの方から聞こえました。


「翌朝大浴場入ってたら、その彼女さんとかち合うてね」


 耳を塞ぎたいのにスマホを持った手が固まって動かない。全ての神経繊維が左耳に集中してる。そんな感じだったのです。


「夏頃からの付き合いで、数日前の、ちょうど半年の日にプロポーズされたんやって。だからこれは婚約旅行なんだとか。やるな岡江直人。結婚は来春、じゃなくて今春なんだってさ」


 夏頃はときどき会ってたし、彼の部屋に泊まったことも、まだあった。その頃から別の人がいたなんて、私ぜんぜん気づかなかった。


「瑞稀も去年の年賀状で、そろそろいい報告が出来るかもって書いてたやーろ。結婚したら三組で仲良うせん? 岡江くんの彼女さん、感じのええ子やったよ」


 あの年賀状の報告、相手は直人だったのよ。だから私、その人とお友だちにはなれない。

 絵鈴えりんにそう答えたかった。でも私はただ黙りこくっていました。だって絵鈴えりんは私と直人の交際を知りません。新生活の始まりで忙しかった彼女は、一昨年の夏の終わりに開かれた同窓会は来なかったから。


          *


 絵鈴えりんとの電話が終わったときには日付はもう九日になっていました。週の始まりの月曜だというのに、私はもう大晦日から充電してきた全ての気力を吐き出してしまったようです。

 そのとき私が心底思ったことは、今日が成人の日でよかった、休みがもう一日残ってて本当によかった、でした。

 私は私が考えていた以上に、直人との別離わかれに未練を残していたようです。


 あの同窓会で私を見つけ連絡先交換をした彼は、翌日から毎朝LINEを送ってきました。そういうアプローチに慣れてなかった私は、それらいちいちに返信を付けたのです。

 二週間後に最初のデート。その日の最後に告白し、次回のデートの最後にその答えを聞く約束。どこかの教本テキストで仕入れたようなやり方を、岡江直人は丸ひと月掛けてやり遂げました。結果、恋愛処女だった私は見事からめ捕られた。それまでぼんやりとも見えていなかった未来に、ある種の形が与えられ、そんな幸せも悪くないかなと思うようにさえなったのです。



 この春結婚? その席って、本当だったら私が座ってるところだよね。ねえ直人。あなたそんなに結婚したかったの? 本線の隣にも線路引いといて、進みが悪いなって思ったら気軽に支線に乗り入れて本線は閉鎖、みたいな真似を平気でしちゃうくらい。

 悪いのは私ではなく二股を掛けていた直人。憎むべきは他人ひとの彼氏を横取りした泥棒女。そんなわかり易い仮想敵を手にしてしまった私は、油断するとすぐにでもどす黒い口惜しさに支配されてしまいそうで、ちっとも眠れる気がしません。

 私が独り暮らしなんかしなければ、彼の薦め通り同棲してさえいれば、そんな女に付け入る隙など与えなかったのに。そう自分を追い込んだかと思えば、最後通告からたった半日での完全ブロックは、私の反撃を彼女の目に触れないようにするために小心者が急拵えした防潮堤に違いないとか。そんな考えに終始したまま朝を迎えた私は、寝るのを完全に諦めて起き上がることにしました。

 鏡の中の私は、目の下に真っ黒い隈をつくっています。いくら出かける予定がないとはいえ、このままではさすがに気持ち悪い。そう思ったのでお風呂の追い焚きを始めました。



 時間を掛けた入浴で、多少は気持ちも落ち着いた。恨むとか後悔するとか、そういうターンはもう通り過ぎた景色。昨日までに行き着いていたはずの頭の理解は、それでも全身の隅々に偏在する感情すべてに浸透するには、まだ時が要るかもしれない。そこで私は思い出しました。

 そうだ。昨日持って帰ってきたあのお化けレモンで檸檬酒を漬けよう。



 母が隣家のお庭になっていたのをいただいたという、直径二十センチ大の巨大レモンが二個。その皮を包丁でぐるぐると剝き、ぶつ切りにした果肉を氷砂糖を敷いた広口瓶の底に沈める。それらの作業を、ただただ一心不乱に。モビールのようなひと続きの皮二本もそこに載せ、上からとぽとぽとホワイトリカーを注ぐこと一升。午後一時前には立派な檸檬酒漬けができあがりました。

 レースのカーテン越しに光ってる中身をたたえた広口瓶を空っぽのアタマで眺めていると、そこはかとない幸せが湧いてきます。三週間くらいで飲み始めることができるんだとか。楽しみ。



 檸檬酒漬けを見ながら温めた冷凍ピラフを食べていたら、LINE通話が入りました。栄さんから。スピーカーモードにした途端、彼女の勢いのある声が響き出しました。


「瑞稀ちゃん、おると? ヒマやったら、今からちょっと出てこん?」

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