ほのかではあるが、甘い花のような、それでいて、妖艶な香りが、孔明の鼻をくすぐる。
どこからか流れてくる、女人達の楽しげなささやき声が、孔明の耳をくすぐる。
──桃源郷。
ふと、そんな言葉が、孔明の脳裏に浮かんだ。
「あっ、旦那様が、お目覚めですよ!」
今度は、聞き覚えのある、幼い声がした。
ん?
孔明は、目を
薄布が垂れ下がり、揺らいでいた。
横になる寝台に、取り付けられている
これは、どうしたことだと、孔明は、惑う。
まるで、違った。自分の寝室には無い、裕福な女人の部屋に備わるモノとしか言い様の無い情景だった。
「旦那様、お水を飲まれますか?」
再び、幼い声がする。
そして、孔明は、やっと、理解した。
そうだ、自分は、黄夫人の実家へ来ているのだ。そして、ここは、黄夫人の部屋なのだと。
聞き覚えのある声は、童子のもの。
眠っていた自分に付き添ってくれていたのだろうか。
「あー、奥様は、お休みになって、と言うか、湯船につかり、お肌を磨き、髪も洗って、爪も整え、とにかく、磨きに磨いております」
「……なんだね?それは?」
「うーんと、つまりですね、実家で、羽を伸ばしていると」
「はあ、そうなのか」
まあ、よかろう、と、孔明は思う。
そもそもは、このように、芳しく香る洗練された部屋に住む方なのだ。それを、あばら屋に住まわせ、挙げ句、自分が熱を出し、手を煩わせてしまった。
「あっ、そうだ、旦那様、汗はおかきになっていませんか?着替えた方がいいと思います」
「うん?ああ、まあ、そうだな。で、童子よ、お前は、羽を伸ばさないのかい?」
え?と、童子は、不思議そうな顔をする。
「だって、御屋敷にいられるだけで、十分楽しめますから。均様にもおいでいただけばよかったなぁー。あちらの家とは、違って、種々なものがありますからねぇ」
「うん、確かに、いるだけで、楽しめる。均の奴に見せたら、腰を抜かすものばかりだ」
ですよねー、と、孔明も、童子も、和やかな時を過ごしていたのだが……。
その、均はといえば、まさに、腰を抜かしそうな思いをしていた。
「で、ですから、兄は、留守でっ!!」
「なにっ!いつ来たら、会えるのじゃ!」
「る、留守なものは、仕方ない、じゃないですか!」
と、グリグリ目玉の男、こと、張飛に向かって、精一杯の啖呵を切っていた。
朝の畑仕事から、戻ってみると、劉備、関羽、張飛の三人が、門前で仁王立っていた。
正しくは、そう、みえたのだが、均は、とっさに、手にする
童子が、鎌を振り回して、追い返した様に、何事かあれば、自分は、鍬を振り回す。と、心に誓うが、いかんせん、やはり、相手の勢いと迫力に負けてしまう。
「あー!まったく!何度、こんな、秘境のような田舎に通わなければならぬのじゃあー!」
張飛が、叫ぶ。
「そ、そんな、こと、知りませんよ!そ、そ、そちらが、勝手に押し掛けて来ていて、な、なんですかっ!」
「うるさいわっ!!そうじゃ、あの、生意気な、女と子供めっ!いっそ、火を放ち、あぶり出してやろうかっ!!」
なっ?!こ、これかっ!童子の言っていた、すぐ、放火するという話は!!
均は、恐ろしさに震えていたが、火など放たれては、住む家が無くなってしまう。それに、村にも、迷惑をかける。火が、燃え広がってしまったら……。
いや、まて、これは、これで……役に立つかも。
「ちょっと!あんた!そんなに、燃やしたかったら、ついてきな!!」
均の変貌に、張飛は、一瞬、たじろいだ。
「おい、張飛、その辺にしないか」
やっと、劉備が止めに入る。
「……私、思うんですけど、あなた様、劉備様でしょ?なぜ、いつも、後ろに隠れているのですか?」
「隠れている……」
「でしょ?なぜ、すぐ止めないんですか?まあ、今回は、止めませんよ、燃やしてください。正し、こちらへ、どうぞ」
均は、すたすた歩み出す。
「早くついて来てください!終わってしまいます!」
先で、じれったそうに、均が叫んだ。
訳の分からない三人は、つい、頷いていた。
そして──。
「皆さん、ご苦労様です。助っ人連れてきましたよ」
と、均が言う先では、農夫達が、集まって、地面に火をつけていた。
「あー、そりゃー、すまないねぇ」
劉備達は、呆然と立ち尽くしている。
「さあ、あなた、火を放ちたいんでしょ!」
均は、農夫達と合流し、張飛へ声をかけた。
「火付けの上手いの、連れてきましたから、存分に使ってください」
「いやー、わるいねー、均さん」
「いやいや、とんでもない。こちらこそ、いつも、灰を分けてもらって……」
すまんが、と、劉備が均へ、声をかけた。これは、何をしているのだと。
「焼き畑ですよ。こうして、雑草を焼いて、土地を開墾するのです。この辺りは、そう、秘境ですからね。こうして、先ず、平地を作っていかなければ開墾もなにも」
「兄じゃ!こんなこと、できるか!」
「なんのためにっ!」
張飛も関羽も、早速、文句を言った。
「ちょっと、あなた達、上に立ちたいのでしょ?ならば、民のことを、考えたらどうですか?何度も、訪ねてくる暇があるならば、民に、手を貸したらどうです!!」
均の叫びに、張飛が怒る。
しかし、劉備がすぐに止めた。
「なるほど、このように、民は、土地を耕しているのか……張飛、静かにしろ!作業の邪魔だ!」
「はい、邪魔です。何でもかんでも、どこにでも、火を放なたれては、開墾どころか、村ごと、焼けていまいます。どうか、お引き取りを」
均に言われ、劉備は、返す言葉がなかった。