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戦の前には誤算あり8

ほのかではあるが、甘い花のような、それでいて、妖艶な香りが、孔明の鼻をくすぐる。


どこからか流れてくる、女人達の楽しげなささやき声が、孔明の耳をくすぐる。


──桃源郷。


ふと、そんな言葉が、孔明の脳裏に浮かんだ。


「あっ、旦那様が、お目覚めですよ!」


今度は、聞き覚えのある、幼い声がした。


ん?


孔明は、目をしばたく。


薄布が垂れ下がり、揺らいでいた。


横になる寝台に、取り付けられている天蓋てんがいのようだ。そして、黒檀らしき支柱が見える。


これは、どうしたことだと、孔明は、惑う。


まるで、違った。自分の寝室には無い、裕福な女人の部屋に備わるモノとしか言い様の無い情景だった。


「旦那様、お水を飲まれますか?」


再び、幼い声がする。


そして、孔明は、やっと、理解した。


そうだ、自分は、黄夫人の実家へ来ているのだ。そして、ここは、黄夫人の部屋なのだと。


聞き覚えのある声は、童子のもの。


眠っていた自分に付き添ってくれていたのだろうか。


「あー、奥様は、お休みになって、と言うか、湯船につかり、お肌を磨き、髪も洗って、爪も整え、とにかく、磨きに磨いております」


「……なんだね?それは?」


「うーんと、つまりですね、実家で、羽を伸ばしていると」


「はあ、そうなのか」


まあ、よかろう、と、孔明は思う。


そもそもは、このように、芳しく香る洗練された部屋に住む方なのだ。それを、あばら屋に住まわせ、挙げ句、自分が熱を出し、手を煩わせてしまった。


「あっ、そうだ、旦那様、汗はおかきになっていませんか?着替えた方がいいと思います」


「うん?ああ、まあ、そうだな。で、童子よ、お前は、羽を伸ばさないのかい?」


え?と、童子は、不思議そうな顔をする。


「だって、御屋敷にいられるだけで、十分楽しめますから。均様にもおいでいただけばよかったなぁー。あちらの家とは、違って、種々なものがありますからねぇ」


「うん、確かに、いるだけで、楽しめる。均の奴に見せたら、腰を抜かすものばかりだ」


ですよねー、と、孔明も、童子も、和やかな時を過ごしていたのだが……。


その、均はといえば、まさに、腰を抜かしそうな思いをしていた。


「で、ですから、兄は、留守でっ!!」


「なにっ!いつ来たら、会えるのじゃ!」


「る、留守なものは、仕方ない、じゃないですか!」


と、グリグリ目玉の男、こと、張飛に向かって、精一杯の啖呵を切っていた。


朝の畑仕事から、戻ってみると、劉備、関羽、張飛の三人が、門前で仁王立っていた。


正しくは、そう、みえたのだが、均は、とっさに、手にするくわを握りしめた。


童子が、鎌を振り回して、追い返した様に、何事かあれば、自分は、鍬を振り回す。と、心に誓うが、いかんせん、やはり、相手の勢いと迫力に負けてしまう。


「あー!まったく!何度、こんな、秘境のような田舎に通わなければならぬのじゃあー!」


張飛が、叫ぶ。


「そ、そんな、こと、知りませんよ!そ、そ、そちらが、勝手に押し掛けて来ていて、な、なんですかっ!」


「うるさいわっ!!そうじゃ、あの、生意気な、女と子供めっ!いっそ、火を放ち、あぶり出してやろうかっ!!」


なっ?!こ、これかっ!童子の言っていた、すぐ、放火するという話は!!


均は、恐ろしさに震えていたが、火など放たれては、住む家が無くなってしまう。それに、村にも、迷惑をかける。火が、燃え広がってしまったら……。


いや、まて、これは、これで……役に立つかも。


「ちょっと!あんた!そんなに、燃やしたかったら、ついてきな!!」


均の変貌に、張飛は、一瞬、たじろいだ。


「おい、張飛、その辺にしないか」


やっと、劉備が止めに入る。


「……私、思うんですけど、あなた様、劉備様でしょ?なぜ、いつも、後ろに隠れているのですか?」


「隠れている……」


「でしょ?なぜ、すぐ止めないんですか?まあ、今回は、止めませんよ、燃やしてください。正し、こちらへ、どうぞ」


均は、すたすた歩み出す。


「早くついて来てください!終わってしまいます!」


先で、じれったそうに、均が叫んだ。


訳の分からない三人は、つい、頷いていた。


そして──。


「皆さん、ご苦労様です。助っ人連れてきましたよ」


と、均が言う先では、農夫達が、集まって、地面に火をつけていた。


「あー、そりゃー、すまないねぇ」


劉備達は、呆然と立ち尽くしている。


「さあ、あなた、火を放ちたいんでしょ!」


均は、農夫達と合流し、張飛へ声をかけた。


「火付けの上手いの、連れてきましたから、存分に使ってください」


「いやー、わるいねー、均さん」


「いやいや、とんでもない。こちらこそ、いつも、灰を分けてもらって……」


すまんが、と、劉備が均へ、声をかけた。これは、何をしているのだと。


「焼き畑ですよ。こうして、雑草を焼いて、土地を開墾するのです。この辺りは、そう、秘境ですからね。こうして、先ず、平地を作っていかなければ開墾もなにも」


「兄じゃ!こんなこと、できるか!」


「なんのためにっ!」


張飛も関羽も、早速、文句を言った。


「ちょっと、あなた達、上に立ちたいのでしょ?ならば、民のことを、考えたらどうですか?何度も、訪ねてくる暇があるならば、民に、手を貸したらどうです!!」


均の叫びに、張飛が怒る。


しかし、劉備がすぐに止めた。


「なるほど、このように、民は、土地を耕しているのか……張飛、静かにしろ!作業の邪魔だ!」


「はい、邪魔です。何でもかんでも、どこにでも、火を放なたれては、開墾どころか、村ごと、焼けていまいます。どうか、お引き取りを」


均に言われ、劉備は、返す言葉がなかった。

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