「黄夫人?なんだか、表が騒がしいですねぇ?」
「ほんとですわねぇ。旦那様は、気にせずに、お休みくださいまし。そもそも、夜もまともに眠らず、考え事をしていれば、調子も悪くなりますよ」
うーん、そうですけど……と、昼間から床についているのは落ち着かないらしく、孔明は、夜具の中で、モゾモゾと動いている。
「やっと、お熱が下がったのですからね?今日は、横になっていてください!」
はい、分かりましたと、聞こえる返事は、どこか、不満げだ。
「これくらい。が、命取りになるのですよ!旦那様に何かあったら、私は、この歳で、未亡人になるのです!そして、髪が、赤いだ、黄色だ、色黒だ、醜女だと、また、言われた挙げ句、再婚させられるのですから!」
「そ、それは、困ります!その若さで、未亡人とは!いけません、いけませんよ!」
孔明は、興奮しきっているが、当の黄夫人こと、月英は、あら?と、首をかしげて、耳を澄ませていた。
「おかしいですわね。表が、騒がし過ぎます。まるで、怒鳴り合いの喧嘩……それも……」
童子だわ!私、見て参ります!と、月英は、表へ向かおうとするが、
「あっ、旦那様。くれぐれも、おとなしくしておいてくださいましよ」
孔明へ釘を指すと、何なのかしら?と、そのまま駆け出して行った。
「何を小癪なっ!」
「ああ、我らに、難癖をつけるつもりかっ!」
月英が、表へ出ると、童子が鎌を振り上げ、うるせぇー!この、賭場荒らしめがっ!さっさと、失せやがれっ!と、啖呵を切り、その横で、均が、はらはらしていた。
童子に、絡まれているのは、ふさふさとした髭と、どんぐり眼の大男達だった。
「こちとら、お前らに、いつも、荒らされて、頭にきてんだよっ!おう!いつだって、父ちゃんと、若い衆を呼んでくるぜっ!」
「何を生意気な!この、ガキめがっ!」
「ははは、呼べるものなら、お前の
「はい、分かりました。父を、呼べば、よろしいのね?そこの、ふさふさ髭に、グリグリ目玉さん?」
ふさふさ髭に、グリグリ目玉と、呼ばれた男達──、関羽と張飛は、はっと、息を飲む。
美しいとしか、形容できない女が現れたのだ。
「そ、そちは、何しに?」
張飛が、月英へ近づこうと前へ出る。
「こらっ!張飛!動くんじゃねぇ!門の中へ入ってくんなっ!」
童子が、血相を変えて、鎌を振り回しながら、張飛へ、向かって行こうとする。
「童子や、おやめ。父上を、呼べば、この、ならず者も、大人しくなるわ。ねえ?違いまして?」
月英は、笑みを浮かべ、張飛を見た。
それは、いつもの、目のやり場のない、妖艶なものではなく、明らかに、見下した、軽い笑いだった。
とはいえ、その、突き放した感が、また、男をそそるというか、色気が、何やら、増している。
怒鳴っていた、張飛は、見とれながら、のう、そなたは、などと、月英を口説こうとした。
「ふふふ、私ですか?その前に、そちらの名を名乗られたら?いやだわねぇー、童子や、常識のない男って」
これ!いい加減、その辺にしないか。と、張飛と関羽を叱咤する者がいる。
「こちらの、侍女と見受けられるが、我らは、客人。ただ、先生に、ご挨拶に参ったまで。何故、このような扱いを受ける?すまんが、先生に、取りついでくれ」
その一言に、場は、一瞬にして、静かになった。
「おー!さすが、我らが兄じゃ!」
「これ、張飛、静かにせぬか。やっと、あれらが、だまったのだ」
「バカをお言いでないっ!」
月英が、にやけている客人とやらに向かって吠えた。
「あー、もうー、だから、ここは、中途半端なのよ!誰が手にするわけでもなく、のほほとした
「確かに……なんですか。まったく、ひどい。従者が暴れているにも関わらず、ずっと、放置、私的には、かなりの失望です……」
おろおろしていた、均は、側で、涙目になりながら、呟いている。
「ほら、言われてますわよ、劉備様」
おい!と、張飛が、月英を、怒鳴り付けた。
「ったく!何が、おいだ!この、目玉野郎がっ!ちょっとは、黙りなっ!この、すっとこどっこい!てめーが、絡んでる女、誰だと思ってんだよっ!!」
ふふふ、とか、色気をふりまいていた女が、いきなり変貌した。
関羽までが、目を白黒させるといった具合で、張飛も、言葉が出ない。
「……随分な言われかたよ。こちらは、子供に鎌を振り回されて、こらえているのだ、それが、わからぬのか!」
劉備が、いきり立つ。
しかし、月英も、負けていない。
「まったく、あなたは、人というものがわかっておりませんね。それも、戦で、必ず、世話になる、名士の扱い方が、まるで、なってない!よって、曹操、
「女!もう一度、言ってみろ!」
劉備が、怒鳴った。
その後ろで、関羽と張飛が、せせら笑っている。
「ええ、何度でも、と、言いたい所、が、バカらしくて、言うのも惜しいわっ!しかし、ここで、引けば、話にならぬ!!よろしいか!耳の穴かっぽじって、よーく、聞きなされ!我が父は、
なんと!と、叫び、渋い顔をする劉備へ月英は、止めを刺した。
「あたい達を、怒らせたら、どうなるか、あんたが、一番わかってんだろ?えっ?」
劉備は、先程の勢いは、何処へと、尋ねたくなるほど、蒼白な面もちになり、たじろいだ。
「さすがです!」
童子が、歓喜の声を上げる。
「い、いや、
月英の発した啖呵に、涙目だった、均も、顔をほころばせている。
「と、言うわけで、あんたらは、童子に、鎌を振り回されるほど、招かれざる客ってわけだ、さあ、どうする?」
ちょっと!黄夫人!
と、孔明は、焦っていた。
余りの騒がしさに、戸口から、こっそり覗き見してしまったが、これは、どうすれば良いのやらと、力がぬけた。
ここで、表へ出ていけば、床を抜け出したと、月英に叱られるだろう。そして、騒ぎを止めに入ったら、それは……、考えるだけで恐ろしい。孔明は思い、大人しく自分の部屋へ戻ったのだった。
妻を怒らせると、ああなるのか、と、啖呵を切る月英の姿を思い出した孔明は、何故か、震いに襲われた。
「はあ、なんだか、寒い、何故だろう?」
歯をカチカチ鳴らしながら、孔明は、掛布の中へ潜り込み、ぶるぶると震えた。
体調のせいなのか、それとも、見てはならないものを、見てしまったからなのか、孔明には、分からなかった。