そして、ここにも、気を揉む人物がいた。
「
「さあ。昼間、さほど日差しもきつくなかったから……戻って来ないかもしれませんねぇ」
「では、先に、夕餉を頂きますか?」
そうねぇ、と、孔明の妻、黄夫人こと、月英は、口ごもる。
師匠の元で、さらに勉学に励むようになった孔明だが、熱中しすぎて、家へ帰ることすら忘れる事がある。
特に、涼やかな、過ごしやすい日は、門下生と、あれこれ討論に励んでしまうようで、当然、戻りも遅くなる。
夕餉を先に摂っても、良いものかと、月英は、同居している孔明の弟、
「まあ、いつ帰って来るかわからない人を待っていても、バカらしいし。均様、さっさと、食してしまいましょうよ」
「そうですね。食べましょうか」
最初は、兄を差し置いて、などと遠慮していた均も、近頃は、兄嫁の、腹の座り具合が移ったのか、月英にあっさり同意するようになっていた。
そこへ──。
「奥様!旦那様のお戻りです!」
下働きの童子が、慌てふためき、部屋へ飛び込んで来た。
「……童子や、もしかして……」
「はい!その、もしかして、です!」
はあー、と、月英が、息をつき、顔をしかめた。
「で?どっちなの?」
「うーん、それが……判断できません」
童子は、弱りきる。
「わかったわ、そろそろ、聞こえる頃合いということね。私も、聞いてみましょう」
月英が言い終わったとたん、外から、朗々とした、
……力は能く南山を排し
文は能く地紀を絶つ
一朝
二桃もて三士を殺す
誰か能く此の謀を為す……
「国相 斉の
家の門のまえで、最後の句が、ピタリと止んだ。
「あらまっ、いつもながら、お見事ね。どうすれば、ああも、折良く、最後の句が門前で決まるのかしら」
月英は、呟きつつも、しっかり、均を見据えた。
「あれは、ご機嫌斜めですよ。斉の晏子なり~~、と、無駄に伸ばす所は、感情移入しすぎているということ」
眉を潜める、兄嫁に、均は、はあ、と、気の抜けた返事をした。
確かに、兄、孔明は「
そして、月英曰く、その、抑揚で、その時々の孔明の気分が分かるのだとか。
均に言わせれば、吟ずる声で、機嫌がわかるとは、これいかに。なのだが、また、それが、妙に当たっているところが、恐ろしい。
「均様、これは、妙な屁理屈を言い出しますわよ。覚悟なされませ」
そりゃー、まいったなぁと、均は、渋い顔をした。
論ずれば、当然、均が、兄に勝てる訳がない。そして、それが、不機嫌から起こる屁理屈だとしたら、これはもう、朝まで、討論に巻き込まれるに違いない。しかも、それは孔明の一方的なもので、なあ、そうだろう?均よ。と、相づちを求められるものなのだ。
均は、朝まで、だまって頷かなければならないのかと、げんなりした。
「あー、せっかくの、夕餉が、もう!」
月英は、あからさまに嫌がりつつ、席を立ち、孔明を出迎えに向かった。
「全く、人より抜きん出る才があるのも、困りますわねぇ」
ぶつぶつ言いながら、気だるそうに歩む
その才を、引き出そうと才覚を焼いているのは、どなた、だろうかと。