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戦の前には酒席あり1

「では、お戻りは、気の向いた時に。手持ちの金子がなくなりましたら、父の元へお行きなさいまし」


「あっ、はい。しかしですね、黄夫人?姑殿に頼るのもどうかと思うのですよ」


「ならば、ご自分で、物乞いでもなさいませ。くれぐれも、馬を売ってはなりませんよ!その馬がなければ、私が離縁された時に、実家へ戻る足がございませんからね」


「あいわかりました。馬は、必守いたします」


「では、旦那様、お気をつけて、いってらっしゃいませ」


──と、これが、孔明とその妻、黄夫人こと、月英の日課だった。


時は今より、遡ること二千余年程昔。後に、名軍師と呼ばれる、諸葛亮孔明は、荊州けいしゅうの片田舎で、隠とん生活を送っていた。


運良く、襄陽じょうようの街に居を構える、名師、司馬徽しばきの門下生となり、孔明は、教えを乞うため日々、師の元へ通っている。


夜の白々開けに、進んで行く孔明を乗せた馬を見送ると、月英は、欠伸をかみしめた。


隣で、同じく見送りごとを行っていた、同居している孔明の弟、諸葛均しょかつきんは、眠気に襲われている義姉あねを伺った。


義姉上あねうえ、何も、毎日、兄を見送らなくとも。私が、畑仕事へ行くついでに、見送りますよ」


それがねぇ、と、月英は均へ言う。


「なんだかんだと、起こされるのですよ」


「はあ?」


「前の晩に用意しているのに、櫛が無い、帯が無いと、もおー、うるさくて、一人で身じたくできないのかしら?」


それは……。


「ええ、どうも、構って欲しいようで」


均の考えを月英は、さらりと言ってのける。


「はあ、まあ、そうですか。でも、あの口上は……」


好きな時に戻れ、物乞いしろ、離縁、と、なかなか、際どい事を言って、隣にいる均は、ひやひやしているのだが──。


「あれぐらい言わねば、旦那様には、通じませんよ。襄陽の街は、こことは違いますからね。色々な輩がおりますもの」


「はあ、なるほど」


確かに、街慣れしていない兄のこと、人に乞われるままに施して、金子はなくなり、そこに漬け込まれて馬を売り……散々な事になり兼ねない。


姑に当たる、名士の黄承彦こう しょうげんの名を出せば、大抵の事は収まるであろうし、孔明の事を気に入っている黄承彦も、前に出て来るはずだ。


月英は、気を付けるべき事を、具体的に、言い付けているのだろうが、均は、自分よりも、兄の事を掴んでいる所は、やはり、夫婦というものなのかと思う。


「あー、均様、私、どうも眠とうございます。このまま、床につかせて頂きますので、均さまは、遠慮なく畑仕事へどうぞ」


言って、大欠伸をしながら、月英は、家へ入って行った。


均は、思う。あれぐらいの腹の座り具合を持ち合わせないと、兄の才を引き出せないのだろうと──。


そして、襄陽じょうようの街、司馬徽しばきの屋敷前では、孔明が、立ち往生していた。


どうしたことか、先生と、呼ぶべき師の屋敷の門は、閉ざされており、訪れる門下生も、それを見て、踵を返していた。


──成る程、先生はお留守ということか。


と、孔明も、そこまではわかるのだが、その先がわからない。


金子もあるので、姑の屋敷には、立ち寄れず、かといって、いつものように、門下生達と、時を忘れて討論する訳にもいかない。当然、馬は、必守しなければならないが、そもそも、手持ちがあるのだから、売る必要もないだろう。


やはり、家へ帰るのが最善、なのだろうけれど、さて、今から戻れば、黄夫人に、サボったと思われまいか?などなど、閉じられた門の前で、孔明は、あれこれ考えているのだ。


「おい、諸葛亮!何をつっ立っているんだい?」


「やあ、徐庶じょしょじゃないか」


何故か気があって、心安くしている、同じ門下生の徐庶が声をかけてきた。


「お前さんこそ、何をしてるんだ?見ての通り、今日は、先生は、お留守のようだぞ?」


「うん、それは、わかる」


「ははあん、どう、暇潰しをしようかと、悩んでいるわけだな?」


徐庶は、何も言うなとばかりに、うんうんと、幾度か頷いた。

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