「では、お戻りは、気の向いた時に。手持ちの金子がなくなりましたら、父の元へお行きなさいまし」
「あっ、はい。しかしですね、黄夫人?姑殿に頼るのもどうかと思うのですよ」
「ならば、ご自分で、物乞いでもなさいませ。くれぐれも、馬を売ってはなりませんよ!その馬がなければ、私が離縁された時に、実家へ戻る足がございませんからね」
「あいわかりました。馬は、必守いたします」
「では、旦那様、お気をつけて、いってらっしゃいませ」
──と、これが、孔明とその妻、黄夫人こと、月英の日課だった。
時は今より、遡ること二千余年程昔。後に、名軍師と呼ばれる、諸葛亮孔明は、
運良く、
夜の白々開けに、進んで行く孔明を乗せた馬を見送ると、月英は、欠伸をかみしめた。
隣で、同じく見送りごとを行っていた、同居している孔明の弟、
「
それがねぇ、と、月英は均へ言う。
「なんだかんだと、起こされるのですよ」
「はあ?」
「前の晩に用意しているのに、櫛が無い、帯が無いと、もおー、うるさくて、一人で身じたくできないのかしら?」
それは……。
「ええ、どうも、構って欲しいようで」
均の考えを月英は、さらりと言ってのける。
「はあ、まあ、そうですか。でも、あの口上は……」
好きな時に戻れ、物乞いしろ、離縁、と、なかなか、際どい事を言って、隣にいる均は、ひやひやしているのだが──。
「あれぐらい言わねば、旦那様には、通じませんよ。襄陽の街は、こことは違いますからね。色々な輩がおりますもの」
「はあ、なるほど」
確かに、街慣れしていない兄のこと、人に乞われるままに施して、金子はなくなり、そこに漬け込まれて馬を売り……散々な事になり兼ねない。
姑に当たる、名士の
月英は、気を付けるべき事を、具体的に、言い付けているのだろうが、均は、自分よりも、兄の事を掴んでいる所は、やはり、夫婦というものなのかと思う。
「あー、均様、私、どうも眠とうございます。このまま、床につかせて頂きますので、均さまは、遠慮なく畑仕事へどうぞ」
言って、大欠伸をしながら、月英は、家へ入って行った。
均は、思う。あれぐらいの腹の座り具合を持ち合わせないと、兄の才を引き出せないのだろうと──。
そして、
どうしたことか、先生と、呼ぶべき師の屋敷の門は、閉ざされており、訪れる門下生も、それを見て、踵を返していた。
──成る程、先生はお留守ということか。
と、孔明も、そこまではわかるのだが、その先がわからない。
金子もあるので、姑の屋敷には、立ち寄れず、かといって、いつものように、門下生達と、時を忘れて討論する訳にもいかない。当然、馬は、必守しなければならないが、そもそも、手持ちがあるのだから、売る必要もないだろう。
やはり、家へ帰るのが最善、なのだろうけれど、さて、今から戻れば、黄夫人に、サボったと思われまいか?などなど、閉じられた門の前で、孔明は、あれこれ考えているのだ。
「おい、諸葛亮!何をつっ立っているんだい?」
「やあ、
何故か気があって、心安くしている、同じ門下生の徐庶が声をかけてきた。
「お前さんこそ、何をしてるんだ?見ての通り、今日は、先生は、お留守のようだぞ?」
「うん、それは、わかる」
「ははあん、どう、暇潰しをしようかと、悩んでいるわけだな?」
徐庶は、何も言うなとばかりに、うんうんと、幾度か頷いた。