孔明は、見惚れていた。前に座る、己が妻に……。
いや、正確には、何やら口早に語りつつ、筆を走らせている妻の、瞳に。
何故、
さらに、思う。どうして、女人は、艶やかな肌にわざわざ、化粧を施すのか……と。
男の自分よりもキメの細やかな肌に、白粉などはたかなくても良いだろうに。
ふと、妻の肌の感触を思いだし、孔明の胸は、高鳴った。
いったい、どうして、そのような事を考えてしまったのか、と、後悔のような物に襲われるが、孔明の胸は、容赦なく、ドキドキと、鼓動を早めてくれた。
「で、旦那様。何を、そわそわしておるのですか?!」
「いや、それは、黄夫人、私は、何も、そわそわなどは……」
「きっと、私の話など、馬の耳に念仏なのでしょ?」
「いやいや、黄夫人、馬だなんて、私は、歩きで十分ですから」
ほら、人の話を聞いていない、と、黄夫人こと、月英は、孔明を睨み付けた。
「はあ、申し訳ございません。聞いては、いたのですよ。ただ……」
「ただ?」
「黄夫人の、睫毛に見惚れていたのです。なぜ、そのように、長いのかと」
ふう、と、息をつき、次に来るであろう、叱咤を孔明は待った。
「……もう!」
「もう?ですか」
「は、はい、これをっ!!」
「うむ、地図ですか……」
手書きの国土の略図を手渡され、孔明は、しげしげと見た。
差し出してきた、月英の頬が、ほんのり染まっている事など、孔明は知る由もなく、
「これは、なんでしょうか?」
などと、のたまっている。
「勢力図ですっ!」
月英の勢いに、孔明は、肩をびくりと揺らしつつも、おおおっと、呻いていた。
一方、なんとか、息をととのえ、平常心を呼び戻した月英は、よろしいですか、と、孔明へ意見し始めたのだった。
時は遡ること、今より二千余年程昔、所は中国大陸──。
農民達は、飢えと疫病に侵され、生きることも、ままならなかった。
そこへ、張角という男が現れ、黄帝老子の教えと称する太平道という考えを広め始めた。
それは、困窮した農民の心を掴み、ついには、全土で反乱が起こった。
後に、黄巾の乱と呼ばれるものである──。
さらに、その混乱に乗じ、
その国土混乱を平定する為に、各地から連合軍が召集されて──。
「そして、今の私どもの知る世になった訳ですが、旦那様に、わざわざ、お話する事でもなかったですわよね」
と、憎まれ口を叩く月英は、手渡された地図を眺めている孔明の双眸に引き付けられていた。
(ご自分だって、睫毛が長いのに。そんな、伏し目がちにされたら、つい、見惚れて、ドキドキしてしまうではないですか。なんて、子憎たらしい人でしょう。)
顔の火照りを感じた月英は、孔明に悟られまいと、こほん、と、咳払いをした。
「あ、黄夫人、お疲れになったのでしょう。お風邪をおめしになっては、いけません。童子に、言い付けて、薬湯を用意させましょう。風邪は、万病の元と言いますからね。気をつけなければ」
「もう!ですからね、ここ、ここだけが、風通しがよすぎるのですよ!」
孔明の持つ地図を奪い、月英は、再度、卓に広げると、一点を指差した。
「ええ、ええ、国土は、男達の野望ギラギラで、蒸し蒸しです!特に、国土平定に功績のあった、
「……きたら?」
「はい、曹操様は、帝を擁して大将軍の地位につき、中原の支配を確実なものとしております。そして、孫堅様も親子で呉郡一体を平定して……」
「つまり、私達の住む
「そうです、すっかすか」
「風通しが、良すぎる訳ですね。それは、困った。風邪をこじらせ、大病を患ってしまいかねない……」
孔明は、広げられている地図の、自らの居である荊州の辺りを凝視した。