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戦の前には女あり1

孔明は、見惚れていた。前に座る、己が妻に……。


いや、正確には、何やら口早に語りつつ、筆を走らせている妻の、瞳に。


何故、睫毛まつげが、ああも長いのか。


さらに、思う。どうして、女人は、艶やかな肌にわざわざ、化粧を施すのか……と。


男の自分よりもキメの細やかな肌に、白粉などはたかなくても良いだろうに。


ふと、妻の肌の感触を思いだし、孔明の胸は、高鳴った。


いったい、どうして、そのような事を考えてしまったのか、と、後悔のような物に襲われるが、孔明の胸は、容赦なく、ドキドキと、鼓動を早めてくれた。


「で、旦那様。何を、そわそわしておるのですか?!」


「いや、それは、黄夫人、私は、何も、そわそわなどは……」


「きっと、私の話など、馬の耳に念仏なのでしょ?」


「いやいや、黄夫人、馬だなんて、私は、歩きで十分ですから」


ほら、人の話を聞いていない、と、黄夫人こと、月英は、孔明を睨み付けた。


「はあ、申し訳ございません。聞いては、いたのですよ。ただ……」


「ただ?」


「黄夫人の、睫毛に見惚れていたのです。なぜ、そのように、長いのかと」


ふう、と、息をつき、次に来るであろう、叱咤を孔明は待った。


「……もう!」


「もう?ですか」


「は、はい、これをっ!!」


「うむ、地図ですか……」


手書きの国土の略図を手渡され、孔明は、しげしげと見た。


差し出してきた、月英の頬が、ほんのり染まっている事など、孔明は知る由もなく、


「これは、なんでしょうか?」


などと、のたまっている。


「勢力図ですっ!」


月英の勢いに、孔明は、肩をびくりと揺らしつつも、おおおっと、呻いていた。


一方、なんとか、息をととのえ、平常心を呼び戻した月英は、よろしいですか、と、孔明へ意見し始めたのだった。


時は遡ること、今より二千余年程昔、所は中国大陸──。


農民達は、飢えと疫病に侵され、生きることも、ままならなかった。


そこへ、張角という男が現れ、黄帝老子の教えと称する太平道という考えを広め始めた。


それは、困窮した農民の心を掴み、ついには、全土で反乱が起こった。


後に、黄巾の乱と呼ばれるものである──。


さらに、その混乱に乗じ、董卓とうたくが政権を奪取する。


その国土混乱を平定する為に、各地から連合軍が召集されて──。


「そして、今の私どもの知る世になった訳ですが、旦那様に、わざわざ、お話する事でもなかったですわよね」


と、憎まれ口を叩く月英は、手渡された地図を眺めている孔明の双眸に引き付けられていた。


(ご自分だって、睫毛が長いのに。そんな、伏し目がちにされたら、つい、見惚れて、ドキドキしてしまうではないですか。なんて、子憎たらしい人でしょう。)


顔の火照りを感じた月英は、孔明に悟られまいと、こほん、と、咳払いをした。


「あ、黄夫人、お疲れになったのでしょう。お風邪をおめしになっては、いけません。童子に、言い付けて、薬湯を用意させましょう。風邪は、万病の元と言いますからね。気をつけなければ」


「もう!ですからね、ここ、ここだけが、風通しがよすぎるのですよ!」


孔明の持つ地図を奪い、月英は、再度、卓に広げると、一点を指差した。


「ええ、ええ、国土は、男達の野望ギラギラで、蒸し蒸しです!特に、国土平定に功績のあった、曹操そうそう孫堅そんけんの両名様ときたら!」


「……きたら?」


「はい、曹操様は、帝を擁して大将軍の地位につき、中原の支配を確実なものとしております。そして、孫堅様も親子で呉郡一体を平定して……」


「つまり、私達の住む荊州けいしゅうだけが……」


「そうです、すっかすか」


「風通しが、良すぎる訳ですね。それは、困った。風邪をこじらせ、大病を患ってしまいかねない……」


孔明は、広げられている地図の、自らの居である荊州の辺りを凝視した。

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