何処からやって来たのか、目の前には美しいと、形容するにふさわしい女がいる。
「あらまっ、本当に、何もない所ですこと」
「あっ、まあ、書生生活なので、人様のように、物は揃っておりませんで……申し訳ございません……」
──時は、今よりさかのぼること約二千年程昔。
しかし、庶民は、住む街が荒らされている訳でもないのであるからと、彼方で、猛将が領土を拡大しているらしい。その程度の心得で日々暮らしていた。
そして、ここにも──。
まだ、三十路手前の若さで、何を悟ったのか、晴耕雨読の日々を送る、仙人気取りの男がいた。
名は
さて、孔明。自らを書生と称しているが、特に、従じている先もない。要は、自由気ままに過ごしていた。
「と、私は、判断いたしましたが、何かしらのお考えあっての、無職、生活なのかしら?これでは、嫁を貰い、其方の実家からの仕送りで暮らすしかないのでは、ありませんか?」
「あ、いえ、その様な。そもそも、私には、嫁取りの話など縁なくて……」
「そうでしょうか?」
女は、言うと、
その、意味ありげなものに、孔明は、ドキリとする。
「あー!もしや、あなた様は!
「ほら、縁組のお話、あるじゃあございませんか」
「あっ、それは、その」
してやられたと、孔明は思う。
だが、不思議と、嫌悪は感じなかった。それは、女の美しさ故なのか、はたまた、弁が立つ賢さ故なのか……、孔明には分からなかった。
こうして、どうも、失礼いたしましたと、大袈裟とも言えるお辞儀をしながら、孔明は地元の名士、黄承彦の娘を見送っていた。
乗る馬車の車輪の音が、ゴトゴトと、いつまでも響いている。耳障りなそれを聞きながら、孔明は、門の前で立すくんでいた。
あれは、確か……。七日前。いや、十日前……。
孔明が、記憶を手繰っている側から、
「一ヶ
さあ、そろそろ、家の中へお入りを、と、声がかかる。
共に住む、弟の
均は、子細は了解と、言いながら、兄を家へ、
思えば、孔明、今朝から、何も食べていなかった。さて、弟が用意したのは、
「兄上、もう、夕方ですよ」
「おや、そんなに、時は流れてしまったのか。今日は、一日、何も出来なかった」
「あの、美女のせいで?」
「あ、いや、それは、さあ……」
兄の歯切れの悪い応対に、均は、クスリと笑いながら、さて、どうやって、この鈍感男に、自らの中に芽生えたモノを気づかせようかと、思案する。
人並み外れた、それも、桁違いの知識と智力を持つ男も、こと、自身の事になると、さっぱりなようで、部屋の掃除に、食事の支度、時には、身繕いまで、均に任せきり。
それだけ、孔明は書物から知識を得ることに夢中だったのだ。
一度、書物を手にすると、全巻読破するまで、寝食を忘れる集中力を見せる。
その間、均が、家の細々な事を行う女房役を請け負うのだが、どうやら、その生活も、終わりを見せようとしているようだ。
ほっとしつつも、少しばかり、寂しさを感じる均だった。が、かの女人ならば、兄の才覚をきっと生かしてくれると頼もしく思えていた。
自ら、
これは、面白い事になる。と、均は思う。
さあ、問題は、孔明本人。
本当に、女として見る事が出来ない。もしくは、気に入らないなら、かの女人を、いきなり押し掛けてきての無礼は何事ぞと、追い返す事だろう。それが見られないどころか、すっかり、言いなり。すでに、尻に敷かれているような……。
「明日も来るとか、仰っていたなぁ」
孔明は、理解不能の顔をして、食事を口にしている。
ははん。と、均は思う。どうやら、兄は、あちらのお眼鏡に止まったらしい。ということは、わざわざ、均が、手を出す必要はないということだ。
あの方は、すでにその気。
そして、兄を上手く転がし、その才能を引き出してくれるに違いない。
ふと、自分の居場所探しに移らなくてはと、均は思う。新婚夫婦と同居は、出来まいし、いや、そもそも船頭は、二人も必要ない。
──そして、翌日。
均は、食材探しに里山へ出かけるごとで、家を開けた。すべては、兄のためだった。
孔明は、何故か落ち着かず、均を見送るごとで門の前に立っている。
「では、いって参ります。兄上」
「うむ、気を付けていきなさい。決して無理はしないように。あっ、植物には、毒を持つ物もあるから……」
「兄上、ご心配なく。ほら、来られましたよ。では、私は」
クスクス笑いながら、均は、足早に立ち去った。あの方の馬車の音がしたからだ。
馬車は、孔明の家のかなり手前の畑の前で止まった。そして、例の美女が、今日は童子を連れて、こちらへやって来る。
「まあ、ご苦労様ですこと。お出迎え頂きまして」
孔明に気が付いた女は、にこりと笑うこともなく、つかつかと、歩み寄って来た。
その後を、童子がよたよたついて来ている。見ると、手に大皿を持っていた。
「きっと、男所帯、まともな物も食してなさらないと思いまして、差し入れです」
女は、嫌みに近い事を言い、童子は、ペコリと頭を下げた。
「あっ、それは、また、なんだか、気を使って頂いて」
散々な言われようではあるが、孔明は、素直に礼を述べた。
それは、女の父親が名士だから、おべっかを使っているのか……。
孔明には、分からなかった。