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軍師の嫁取り
井川奎
歴史・時代三国
2024年12月02日
公開日
42,272文字
連載中
才覚を活かすため、すこしばかり、旦那様の背中、押して差し上げましょう。とかなんとか言いつつ、野望満々の押しかけ妻、月英は、孔明を仕官の道へ導いて行く……。
時は、今より二千年ほど昔。中国、後漢王朝時代。
片田舎で、隠とん生活を送る若者、諸葛亮孔明の元へ、美人妻が嫁いでくる。
尻に敷かれているのか、溺愛しているのか、妻、黄夫人こと月英に、べったり、孔明は、月英の後押しによって、仕官への道を歩みはじめた。
後の名軍師、諸葛亮孔明とその妻、黄夫人の若き日の物語。

戦の前には恋がある1

何処からやって来たのか、目の前には美しいと、形容するにふさわしい女がいる。


「あらまっ、本当に、何もない所ですこと」


「あっ、まあ、書生生活なので、人様のように、物は揃っておりませんで……申し訳ございません……」


孔明こうめいは、我が家を卑下されているにも関わらず、女に謝っていた。


──時は、今よりさかのぼること約二千年程昔。


献帝けんていの御世、後漢王朝ちゅうごくは、国土の北部で、曹操そうそう袁紹えんしょうを打ち破り、虎視眈々《こしたんたん》と、南進の機会を狙っているという、戦乱の始まりどきだった。


しかし、庶民は、住む街が荒らされている訳でもないのであるからと、彼方で、猛将が領土を拡大しているらしい。その程度の心得で日々暮らしていた。


そして、ここにも──。


まだ、三十路手前の若さで、何を悟ったのか、晴耕雨読の日々を送る、仙人気取りの男がいた。


名は諸葛しょかついみなりょうあざな孔明こうめいのちの名軍師、諸葛亮孔明その人である。


さて、孔明。自らを書生と称しているが、特に、従じている先もない。要は、自由気ままに過ごしていた。


「と、私は、判断いたしましたが、何かしらのお考えあっての、無職、生活なのかしら?これでは、嫁を貰い、其方の実家からの仕送りで暮らすしかないのでは、ありませんか?」


「あ、いえ、その様な。そもそも、私には、嫁取りの話など縁なくて……」


「そうでしょうか?」


女は、言うと、秋波ながしめを孔明へ送った。


その、意味ありげなものに、孔明は、ドキリとする。


「あー!もしや、あなた様は!黄承彦こう しょうげん様の!」


「ほら、縁組のお話、あるじゃあございませんか」


「あっ、それは、その」


してやられたと、孔明は思う。


だが、不思議と、嫌悪は感じなかった。それは、女の美しさ故なのか、はたまた、弁が立つ賢さ故なのか……、孔明には分からなかった。


こうして、どうも、失礼いたしましたと、大袈裟とも言えるお辞儀をしながら、孔明は地元の名士、黄承彦の娘を見送っていた。


乗る馬車の車輪の音が、ゴトゴトと、いつまでも響いている。耳障りなそれを聞きながら、孔明は、門の前で立すくんでいた。


あれは、確か……。七日前。いや、十日前……。


孔明が、記憶を手繰っている側から、


「一ヶひとつきも、返事らしいものを送らないのですから、相手方も、不審に思いますよ、兄上」


さあ、そろそろ、家の中へお入りを、と、声がかかる。


共に住む、弟の諸葛均しょかつきんだった。


均は、子細は了解と、言いながら、兄を家へ、いざない、食しましょうと、自らが川で釣って来たという、魚料理を勧めてきた。


思えば、孔明、今朝から、何も食べていなかった。さて、弟が用意したのは、何時なんどきの食事だろう。


「兄上、もう、夕方ですよ」


「おや、そんなに、時は流れてしまったのか。今日は、一日、何も出来なかった」


「あの、美女のせいで?」


「あ、いや、それは、さあ……」


兄の歯切れの悪い応対に、均は、クスリと笑いながら、さて、どうやって、この鈍感男に、自らの中に芽生えたモノを気づかせようかと、思案する。


人並み外れた、それも、桁違いの知識と智力を持つ男も、こと、自身の事になると、さっぱりなようで、部屋の掃除に、食事の支度、時には、身繕いまで、均に任せきり。


それだけ、孔明は書物から知識を得ることに夢中だったのだ。


一度、書物を手にすると、全巻読破するまで、寝食を忘れる集中力を見せる。


その間、均が、家の細々な事を行う女房役を請け負うのだが、どうやら、その生活も、終わりを見せようとしているようだ。


ほっとしつつも、少しばかり、寂しさを感じる均だった。が、かの女人ならば、兄の才覚をきっと生かしてくれると頼もしく思えていた。


自ら、めとらせられるであろう、男の値踏みに現れる女など、そうそう、いや、何処を探してもいないだろう。


これは、面白い事になる。と、均は思う。


さあ、問題は、孔明本人。


本当に、女として見る事が出来ない。もしくは、気に入らないなら、かの女人を、いきなり押し掛けてきての無礼は何事ぞと、追い返す事だろう。それが見られないどころか、すっかり、言いなり。すでに、尻に敷かれているような……。


「明日も来るとか、仰っていたなぁ」


孔明は、理解不能の顔をして、食事を口にしている。


ははん。と、均は思う。どうやら、兄は、あちらのお眼鏡に止まったらしい。ということは、わざわざ、均が、手を出す必要はないということだ。


あの方は、すでにその気。


そして、兄を上手く転がし、その才能を引き出してくれるに違いない。


ふと、自分の居場所探しに移らなくてはと、均は思う。新婚夫婦と同居は、出来まいし、いや、そもそも船頭は、二人も必要ない。


──そして、翌日。


均は、食材探しに里山へ出かけるごとで、家を開けた。すべては、兄のためだった。


孔明は、何故か落ち着かず、均を見送るごとで門の前に立っている。


「では、いって参ります。兄上」


「うむ、気を付けていきなさい。決して無理はしないように。あっ、植物には、毒を持つ物もあるから……」


「兄上、ご心配なく。ほら、来られましたよ。では、私は」


クスクス笑いながら、均は、足早に立ち去った。あの方の馬車の音がしたからだ。


馬車は、孔明の家のかなり手前の畑の前で止まった。そして、例の美女が、今日は童子を連れて、こちらへやって来る。


「まあ、ご苦労様ですこと。お出迎え頂きまして」


孔明に気が付いた女は、にこりと笑うこともなく、つかつかと、歩み寄って来た。


その後を、童子がよたよたついて来ている。見ると、手に大皿を持っていた。


「きっと、男所帯、まともな物も食してなさらないと思いまして、差し入れです」


女は、嫌みに近い事を言い、童子は、ペコリと頭を下げた。


「あっ、それは、また、なんだか、気を使って頂いて」


散々な言われようではあるが、孔明は、素直に礼を述べた。


それは、女の父親が名士だから、おべっかを使っているのか……。


孔明には、分からなかった。

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