歩道橋の下を無数の自動車が走り抜けていた。高速道路は、上から見るとそれそのものがある種の異界のようにも思えた。歩行者という「他者」を寄せ付けない異界だ。
今日の高速道路監視担当は隼颯とアケミだった。
「ま、どうせこうやって見張っていても都合よく首なしライダーが現れてくれるとは思えないけどな」
隼颯は歩道橋の手すりに腕をかけながら言った。
「そうですね、そんなにたくさん、隼颯くんの周りに『悪い虫』がたかってくるのは私としても困りますから」
「ところで……」
と隼颯はアケミの方を見ながら言った。
「まだ僕、アケミのことは全然聞いてなかったけど……何も覚えていないのか?」
「何も……とはなんですか?」
「ほら、僕と出会う前のこととかさ。ずっとあの電車の中にいたのか?」
「はい、時間の感覚はありませんでした。ただ、あそこにずっといて……。だからあの日隼颯くんに話しかけられて、初めて時が動き出したような感覚になったんです」
「じゃ、自分が何者であるのかもわからない……か」
アケミは頷いた。球体関節がカチッと音を立てた。
「でも私はわからなくても構わないと思っています。だって今の私にとって、世界の全ては隼颯くんですから」
「少しずつ思い出していけばいいのかもな。キューピットさんがいなくなってくれたおかげで、時間はたっぷりあるだろうから」
その時、下の高速道路を爆音を鳴らして走っていくバイクがあった。
「いるんだよなぁ、あんな暴走族」
隼颯はそう言って何気なく歩道橋下を見てぎくりとした。バイクを運転するライダーには、首がなかった。
「首なし……ライダー」
隼颯は思わず後ずさった。
その姿を見ると不幸になる。そして、今の隼颯にとってのいちばんの不幸といえば……。
高速道路の向こう側が白いものに包まれたように見えた。
「アケミ、あれは……」
隼颯は思わずアケミの腕を掴んだ。
「群れです」
アケミは静かに言った。
「群れ?」
「はい、よく見てください」
白いものはこちらに向かって猛スピードで接近していた。やがて隼颯の目にもそれがなんであるかはっきりとわかるようになった。
高速道路をこちらに向かって接近してくるのは、アケミの言った通り「群れ」であった。それも車と同じくらいの速さで走る、四つん這いの老婆の群れだ。
「ターボ……ババア」
隼颯は呟いた。
高速道路を埋めつくさんばかりのターボババアの大群は歩道橋の下を駆け抜けていった。
「結局……振り出しに戻るのかよ」
隼颯は言った。
オカルト研究部部室でクラッカーが鳴らされた。
「でかしましたわ! 隼颯くん、これでまた私たちは心置き無く怪異と遭遇できるようになりましたのよ!」
都子は嬉しそうに言った。
「結局、すべては元通りってことじゃ……」
「でも、オカルト研究部の活動指針としてはそれこそがあるべき姿なのではなくって?」
隼颯は埒が明かないなと思いながらため息をついた。
帰り道、アケミは隼颯に声をかけてきた。
「浮かない顔ですね」
「そりゃあそうだろ? やっと危ない目から解放されると思ったのに……」
「でも、その分私が隼颯くんを守りますから安心してください。この中華包丁にかけて」
アケミは中華包丁を取り出すとその場で振り回してみせた。
「やっぱり僕って、何か強くノーと言えないタイプなのかな」
隼颯は弱気になって言う。
「どういうことですか?」
「昔からそうなんだ。暗いくせにお人好しでさ」
「でも、私は好きですよ。隼颯くんのこと。だってたとえどんな性格でも、隼颯くんは隼颯くんじゃないですか」
「都子は幼なじみだけど、早々に見限るべきだったのかも……」
「そんなの、隼颯くんじゃありません!」
アケミは言った。
「人を見捨てるなんて……隼颯くんらしくないです。隼颯くんがそんなことをしたら私は、絶対に許しませんから」
「じゃあ、僕はどうすれば……」
「そのままでいてください。隼颯くんの足りないところは、この私が命をかけて守るつもりですから」
それからアケミは中華包丁をしまった。
「だって、人ってそういうものでしょう? 私、これでも隼颯くんのことをじーっと観察しながら人間界についても学んでいるつもりなんですよ?」
「ありがとうな、アケミ」
隼颯は少しだけ笑顔になって言った。
*
夕暮れの街だった。赤いコートにマスク姿の背の高い女が歩いていた。女は前方を歩く男子高校生に目を向けた。彼女は自嘲する。
「そういえば昔は恐れられたものだな……。でも、ある時期に『マスク』が一般的になったせいで、私をひと目見たくらいで恐れるような奴は……」
「あの、すみません」
女は背後から声をかけられ、振り返った。そこにはひとりの女子高生が立っていた。いや、ただの女子高生ではないと女は確信する。彼女も私と同じ「人ではない存在」だ。
「今、隼颯くんの方を見ていましたよね」
アケミは問い質すように言った。
「あぁ、見ていたが……悪いのか?」
「はい、あなたは『怪異』です。怪異が隼颯くんのことを見ていたということはそれ即ち『隼颯くんに危害を加えようとしていた』ということになります。だから……」
アケミは鞄の中から中華包丁を引き抜いた。
「死んでください」
「いや、待て待て待て、まだ私は何も!」
「問答無用です!」
アケミは「口裂け女」に襲いかかった。
「アケミ」
しばらくして隼颯の方に追いついてきたアケミに対し、隼颯は言った。
「首なしライダーを見た割に、最近は怪異にあんまり遭遇しないなと思って……」
アケミは何も答えなかった。
「もし、アケミが人知れず僕のことを守ってくれているのなら、ありがとうな。感謝するよ」
アケミは笑みを浮かべた。
「当たり前じゃないですか。私は隼颯くんを守るって約束したはずですよ」
ふたりが歩く道の先の夕焼けは血のような赤色をしていた。
今日も、アケミのおかげで隼颯の周囲は平穏無事だった。
*
「若様」
と隼颯とアケミの様子を遠くから観察していた自動車の運転手は言った。
「ん?」
助手席に座っていた拓也は運転手の方に顔を向ける。
「思ったよりも……あの『アケミちゃん』なる怪異が活躍していると思いましてな」
「あぁ、僕の作戦通りだろう? 彼女さえいれば、やがてこの街の怪異はすべて滅ぼされる。今のところは……ね」
「しかし、もし、今後、この作戦に狂いが生じたら……」
「それはその時だ。でも、今のところは見守ろうじゃないか」
自動車は動き始めた。