隼颯は咄嗟に枕を掲げて中華包丁の攻撃から身を守った。白い綿が夜の病室に舞った。
「アケミちゃん! 落ち着いて、話を聞いて!」
「出来ません! あなたは私の『愛』を傷つけました! 私は! どうすればいいんですか!」
アケミは何度も枕に向かって中華包丁を突き立てた。枕は今にもばらばらになりそうだった。隼颯はベッドから飛び退くと枕を捨てた。逃げないと殺される……! 隼颯は思った。そして病室の外へと飛び出した。病室の外は薄暗い廊下だった。とりあえずスタッフステーションに逃げこめば……!
アケミは両手に中華包丁を持ち、追いかけてきた。
スタッフステーションは明るい照明に照らされていた。
「すみません!」
隼颯は叫びながらスタッフステーションのカウンターにすがった。看護師の姿はひとりも見当たらなかった。
妙だ……。そういえば、ここに来るまで廊下を思い切り走り抜けてきたのに、誰にも出会うことはなかった。まさか、アケミがもうすでに……。
アケミが追いついてきた。傍から見ると歩いているように見えるものの、かなりのスピードだった。
「隼颯くん……どうして逃げるんですか……? 私は……こんなに……」
隼颯は近くに置いてあった使われていない点滴スタンドを手に取った。そしてそれを槍のように構える。
「アケミちゃん、ごめんなさい……!」
隼颯は点滴スタンドをアケミの頭に向かって振り下ろした。硬い音がした。
しまった……と隼颯は思った。予想以上に力が入ってしまったようだ。アケミは頭を抑えてその場にかがみこんだ。中華包丁が2本、床の上に転がった。
「痛い……です……こんなことを……するんですね……隼颯……くんは……」
「ごめん、でも……やっぱりおかしいよ、君は……」
「隼颯くん……隼颯くん、隼颯くん」
アケミが顔を上げた。その顔を見て隼颯はぞっとした。彼女の右側の額が大きくひしゃげていた。まるで陶器を割ったように穴が空いていた。そしてその穴の中から、無数の木の歯車が飛び出していた。
「人間じゃ……ない」
拓斗は後ずさった。「月の宮駅」だけではなく「アケミちゃん」も怪異の一種だったのだ。
「隼颯くん……隼颯くん……」
アケミは床に落ちていた中華包丁を拾い上げた。
「待って……ください。好き……です。好きなんです」
隼颯は走り出した。何故病院の職員は居ないのだろうか。こうなったら、患者でもいい、どこか別の病室に逃げ込んで助けを求めよう。
隼颯は手近な病室に飛び込むと、ベッドにすがった。
「助けてください! 殺されそうなんです!」
隼颯は必死に言った。ベッドで寝ている患者を揺さぶった。ベッドの中から何かが転げ落ちた。
「え……」
隼颯の背筋に冷たいものが走った。それは白い頭蓋骨だった。慌ててベッドの布団をめくるとベッドに横たわっていたのは白骨死体だった。
その部屋は大部屋だった。恐る恐るほかのベッドに目を向けると、全てのベッドに寝ているはずの患者は白骨死体に変じていた。
「まさか……これ、全部、アケミちゃんが……」
隼颯が思わず部屋の扉に向かって後ずさると、その肩が何者かに掴まれた。
「追いつき……ましたよ」
半壊した顔で笑みを浮かべるアケミだった。
「どうして逃げるんですか? こんなに好きなのに」
「アケミ……お前」
隼颯はアケミに向き直った。
「どうしてこんなことを! 君が好きなのは僕だけだろう! なのに関係ない人を巻き込むなんて!」
「関係……ない人?」
アケミはきょとんと首を傾げた。
「あぁ、そうだ! この人たちは何も関係ない!」
「違います……これは……私じゃ……」
アケミは言った。
「え……?」
隼颯は周囲を見回した。アケミの武器は中華包丁だ。中華包丁で相手を白骨化させることは出来ないようにも思える。
「じゃあ……一体誰が……」
アケミが隼颯をぎゅっと抱きしめた。
「やっと……逃げるのをやめてくれたんですね」
「いや、そうじゃなくって……」
隼颯は思考を巡らせた。ということは、この病院にはアケミ以外にもまた別の怪異が存在しているということなのか? でも、どうして立て続けにこんなに怪異と遭遇するようになったのだろうか……?
「アケミちゃん、落ち着いて聞いてくれ」
隼颯は言った。
「はい、告白ですか?」
「違う」
「じゃあプロポーズですか?」
「それも違う」
そんなやり取りをしながら、隼颯はふとため息をついた。アケミは確かに異常な思考を持った怪異なのかもしれないが、それでも思ったよりは話の通じる相手かもしれない。少なくとも入院患者たちを無差別に殺戮した怪異なんかよりは……。
「どうにかしてここから逃げよう。それからのことは後で考えるんだ」
「わかりました。愛の逃避行ですね」
「違うけどそういうことにしておいてやる」
隼颯はアケミと共に大病室から出た。
「これからどうするんですか?」
アケミが訊いた。
「警察を……いや、警察じゃあ対応は無理かもな。こういうのに詳しそうな僕の友人を呼ぶ」
「友人……ですか?」
「うん、とんでもなく自分勝手な奴ではあるが、こういう方面の話には詳しいんだ」
隼颯は携帯を探した。しかし病院服のポケットには何も入っていなかった。
「そりゃ、そうか」
隼颯は言った。携帯は自分の病室に置いてきてしまったようだった。
「携帯がない。まずは僕の病室に戻ろう」
「ところで……」
とアケミは言った。
「今電話をしようとしている相手は男の方ですか? 女の方ですか?」
「女の方だな。でもどうしてそんな質問を?」
「なんでもありません」
アケミの視線は前を見つめていたため、その表情は読めなかった。
隼颯の病室の扉は開け放しになっていた。慌てて逃げてきたのだから仕方のないことだろう。カーテンが風に揺れていた。
そしてその中に人影があった。
隼颯は一瞬身構えるが、よく見ると相手は女性の看護師だった。隼颯は胸を撫で下ろす。
「助かりました……。あの、病院の様子が変なんです。スタッフステーションにも誰もいなくって、ほかの病室の患者さんはみんな骨になっちゃってて……」
「ほかの病室に立ち入ったのですか?」
看護師は優しく言った。
「はい、ごめんなさい。でも必死で……」
「駄目じゃないですか、勝手に病室を抜け出すなんて……」
「すみません……」
「おかげで、この階の患者さんを全員食べ損ねかけたんですから」
「え……」
看護師の顔が大きくひしゃげた。肌色だった皮膚の色は緑色へと変わり、やがてそれは不定形の怪物へと変化を遂げる。
「でも……あなたを食べればこれで全員です!」
段々と太くなっていく声で看護師は言った。