「ブルーベル……」
「ブルーベル……!」
自分の名前を呼ぶ声に、ブルーベルは、はっとして目を開いた。
「ブルーベル」
目の前に、アルヴァロの顔が見えた。
ブルーベルの大好きな、明るい茶色の瞳。
まるで星のように、青と緑が散っている、宝石のような瞳だ。
「アルヴァロ様……?」
何かが、ブルーベルの肩を優しく押し、鼻先をこすり付けていた。
甘えるような、鼻を鳴らす音が聞こえる。
ブルーベルが起き上がろうとすると、アルヴァロが背中に手を添えて、ゆっくりと起き上がらせてくれた。
「無事でよかった……遅くなって、すまない」
そう言って、アルヴァロはブルーベルを強く抱きしめた。
ブルーベルの背後にはユニコーンがいて、ブルーベルが起き上がると、嬉しそうに頭を押し付けてきた。
「ユニコーンさん。ごめんね、心配させて」
ブルーベルが意識を失ったのは、ほんの数分だったらしい。
周囲を見回すと、そこはヴィエント公爵邸の中庭で、噴水の前には、大人の背丈ほどの、巨大な水晶の柱が出現していた。
ブルーベルは思わず、息を呑む。
反射的に右手を見るが、そこには今まで握っていた、クリスタルの剣は見当たらなかった。
「アルヴァロ様」
ブルーベルは震えそうになるのを、強いて抑えながら、アルヴァロを見上げる。
「わたし……」
ブルーベルの目に、荒れ果てた中庭と、一部損壊した屋敷の様子が目に入る。
そこで、はっと気が付いた。
「アルヴァロ様、ローリンさんは、無事ですか? 騎士達は……? それに、ミ、ミカが消えてしまって————」
アルヴァロは、ブルーベルを安心させるように、肩を抱いて、背中をさすってくれる。
「大丈夫だ。誰も傷ついていない。私と一緒に、ビヨークとミュシャ、それに騎士団の癒し魔法の使い手が来ている。ミカもローリンも、大丈夫だ」
「ミカも!? よかった……」
ブルーベルは安堵したが、アルヴァロの表情は厳しかった。
「アルヴァロ様……?」
「ブルーベル。私はあなたに、厳しい選択を委ねなければならない」
ブルーベルは目を見開いた。
「あの水晶の中に閉じ込められているのは、あなたの姉、フィリス・ノワールだね?」
「は、はい。大地の精霊が助けてくれて、わたしに水晶の剣を渡してくれました。その剣に魔力を込めたら、あのように……っ」
ブルーベルはそう言って、巨大な水晶の中に、その時の衝撃の表情のまま閉じ込められた姉、フィリスの姿を見やった。
唇が震える。
ブルーベルはぎゅっと、唇を噛みしめた。
泣いている場合ではないのだ、と。
(大地の精霊は私に問いかけた)
『わたくしは大地の精霊デイナ。そなたに必要なものは、力。力を手にする勇気はあるか?』
『人を傷つける覚悟は、あるか? 何かを傷つけても、それでも、大切なものを守ろう、と思えるか?』
(わたしは、その問いに答えたのだ。大切な者を守るために。そして、剣を取ったのは、わたし。その結果も、全ては、わたしが引き受けるべきもの)
ブルーベルは、決意を込めて、アルヴァロを見つめる。
アルヴァロはそんなブルーベルを苦しげに見つめ返した。
「屋敷に入った時、私はブルーベルの仮面から感じられるのと同じ、魔力の気配を感じた」
アルヴァロがついに言った。
「あなたと、フィリス・ノワールの間に、魔力がつながっているのを感じる。つまり」
みるみるうちにブルーベルの目が大きく見開かれていき、自然に涙が浮かんでくる。
「それ、は。つまり……」
「加害者がここにいる」
「いや!!」
ブルーベルは一声叫ぶと、大きく後ろに後ずさった。
「まさか!? そんなことが? どうして……まさか、フィリスお姉様が、わたしに?」
もう、ブルーベルは涙を抑えることができなかった。
動揺して泣きじゃくるブルーベルを、アルヴァロは必死で抱き止める。
「……すまない、ブルーベル。本当にすまない。あなたを苦しめたくはないんだ。しかし、あなたを傷つけたのは、あなたの姉、フィリス・ノワールだ」
ブルーベルは大きく頭を振る。
「わたしは、相手から受けた魔法をそのまま、相手に返すことができる」
アルヴァロが言った。
「その特殊能力ゆえに、私は若くして最強魔法騎士と呼ばれ、魔法騎士団を統率する名誉を受けたんだ。相手に魔法を返す、ということは、あなたが受けた魔法は無効化される。つまり、ブルーベル、あなたが受けた闇魔法の傷は、無くなるんだ」
ブルーベルは、アルヴァロをじっと見つめている。
そこにあるのは、希望か、それとも。
喜びと、そして、苦しみ。
「魔法を返すと、相手は、どうなるのですか……?」
その沈黙は、しばらく続いた。
「術者は、自分がかけた魔法をそのまま受ける。このケースの場合、フィリスが望んだのは、あなたの顔を傷つけること。魔法を返した場合、フィリスの顔は傷つけられるだろう」
ブルーベルの表情が歪んだ。
「お、お姉様は、自分がかけた魔法を解くことはできるのですか? そうすれば、顔の傷もいずれは————」
「理論的には可能だ。フィリスが使ったのは、おそらく、闇魔法の呪術だろう。ドゥセテラの宮殿のどこかに魔法陣を残しているのではないかと思う。かけた時と同等の魔力が必要になるが……」
ブルーベルは無言だった。
それは、これだけ大きな呪術を使ったからには、フィリスに残された魔力はもう多くはない、ということ。
つまり、フィリスは魔法を解くことは、できないかもしれないのだ。
アルヴァロが、そっとブルーベルの顔に触れる。
「自分のことを考えろ、ブルーベル」
ブルーベルがはっとしてアルヴァロを見上げる。
「魔法は、決して万能なものではないのだ。魔法には責任が伴う。自分の行動には、誰もが自分で責任を取るしかない。ブルーベル、あなたは、一生、顔の傷とともに生きたいのか。それとも、傷のなかった顔を取り戻したいのか? フィリスのことは考えるな。私のことも考えるな。あなたが顔に仮面を付けているから、私が不利益を被るのではないか、なども考えるな。私は、あなたがどんな姿でも、構わないのだ。だから、自分のことだけを考えて、決めろ。ただ」
アルヴァロは、ブルーベルをまっすぐに見つめて、言う。
「他者の責任を、自分で引き受けるな」
アルヴァロはただ静かに、ブルーベルの答えを、待っていた。
ブルーベルはうつむいた。
(自分のことだけを考えて、決める)
(とはいっても、わたしが傷のなかった顔を取り戻す、ということは、フィリスお姉様がその顔に傷を受ける、ということ)
(今までのわたしなら、人を傷つけるなんて、できなかった)
(でも)
(では、わたしは、誰かに傷つけられることを、選ぶのか……? これから、ずっと……?)
(わたしの、選択。そして、わたしの、責任……)
(この傷は……わたしの、責任では、ない————)
ついに、ブルーベルは顔を上げた。
そして、アルヴァロに、告げる。
「わたしは、傷のなかった顔を、取り戻したい」
そう言ったブルーベルの目には、涙があった。
しかし、逃げることなく、まっすぐ、アルヴァロを見つめていた。
「……わかった。では、私に任せてくれ。見ていて、気持ちのいいものではないが……目を閉じていてくれて構わない」
「……大丈夫です」
ブルーベルは言った。
「これが、わたしの、責任です。見届けます」
アルヴァロは何も言わなかった。
無言で、水晶に閉じ込められたフィリスの前に立つ。
フィリスの魔力を改めて、確認する。
それから、ブルーベルのもとに歩み寄る。
右手を上げると、そこにうす青い、魔力が揺れ動いた。
その指先を、銀の仮面が付けられた、ブルーベルの右頬に触れた。
「邪なものよ。やって来たところに戻れ」
アルヴァロがそう呟いた瞬間、フィリスの凄まじい悲鳴が、周囲に響き渡った。
ブルーベルにかけていた呪いが弾かれ、かけた主に襲いかかる。
ブルーベルにかけられていた呪術が破られる。
同時に、ブルーベルは意識を失い、その場に崩れ落ちた。