目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第61話 わたしが守る(2)

 階段を降りる一歩一歩が、震えた。


 そしてようやく一階に降りた時、玄関ホールに立っていたその人は、ゆっくりと振り返った。


「ブルーベル?」


 色白の肌。

 艶やかな黒髪は、既婚の女性らしく、上品に結い上げられている。

 しかし、身に付けているのは、以前と変わらず、彼女の好きな、赤のドレス。

 まるで、華やかな王女だった頃を彷彿ほうふつとさせるような、そんなドレスだった。


 ブルーベルは、そんな姉の姿に、かすかな違和感を覚える。


「……まあ。見違えたわ。元気そうで、嬉しいわ」


 にこりと微笑みの形にカーブを描く、赤い唇。


 しかし、彼女の黒い瞳を見て、その言葉が彼女の本当の想いかどうか、ブルーベルは判断しかねる、そんな気持ちになった。


 フィリス・ノワール。


 故国、ドゥセテラ王国の第一王女。

 幼い頃から、何をするにも秀でて、人々の賞賛を自分のものにしていた、彼女。


 アルタイスに来て、人の本当の優しさに触れたブルーベルは、自分の父や義母達、そして義姉達が、決して自分に好意を持っていたわけではないことに、気づいてしまった。


 ドゥセテラにあのままずっといたら、きっと、気づかなかったかもしれない、それは残酷な事実でもあった。


 フィリスは、微笑んだまま、じり、じりっと、ブルーベルに近づいてくる。


 そこには、ローリンも、ミカもいた。

 誰もが、じっと、この姉妹の再会を音ひとつ立てることなく、見守っていた。


「ブルーベル、わたくしの可愛い妹。あなたに、心からの謝罪を言うために来たのよ。わたくし、ようやく気づいたの。どんなに、あなたにひどいことをしていたかって……」


 透明な涙が、フィリスの頬に伝った。


「ごめんなさい、ブルーベル」


 それは何についての、謝罪だったのか。


「フィリスお姉様……」


 困惑したような、ブルーベルの声に、フィリスは内心、にやりと笑う。


「お願いよ、わたくしを助けてちょうだい。わたくしは騙されたの。あの男、カラスカスの皇帝アルセスは、すでに宮殿に愛妾を囲っていたわ。わたくしは、たとえ正妃であっても、その女の下なの。皇帝はわたくしのことを、少しも大切にしようとはなさらないの。わたくしには、そんな生活はもう、耐えられない」


 これは、本当のことだ。

 嘘を本当らしくするには、嘘の中に真実を混ぜること。

 人のいいブルーベルはすぐにだまされるだろう。


「お姉様」


 ブルーベルがそっとフィリスに手を差し出した時だった。


「いけません! ブルーベル様っ!!」


 ミカが叫んだ。


「ミカ!?」


 ミカはブルーベルの手を掴むと、思いきり引っ張って、フィリスから引き離した。

 素早く、ブルーベルを自分の背後に隠す。

 ローリンも素早く動いて、ブルーベルとフィリスの間に入った。

 もう少しで、ブルーベルに触れるところだったフィリスが、じっと、ミカを見つめた。


「……わたくしの邪魔をするなんて、許せないわ」


 フィリスが呟き、素早く詠唱をすると、屋敷内は、一転して暗闇に包まれた。


「フィリスお姉様!?」


 ブルーベルは突然の暗闇の中で、ただ立ち尽くした。


 この空間は、おかしい。

 光がないだけではない。

 ブルーベルの上下左右の感覚もまた、おかしくなっていた。


 自分がどこにいるのか、わからなくなってくる。


 その時だった。

 再び、ミカの声が響いた。


「ブルーベル様、この人を信用してはいけません!」


「うるさい!」


 フィリスが吠えるように叫んだ。

 何か、ずん、と腹に響くような、重い感覚が四方八方に飛び散っていく。

 目には見えないが、重量のある何かが放たれた、そんな感覚がした。

 それに触れれば、おそらく肉体にダメージを受ける。

 ブルーベルは本能的に、体を小さくして、しゃがみ込んだ。


 ごふ、っと誰かがうめいた。


「う……!」

「ミカ!? 大丈夫!?」

「大丈夫です。ブルーベル様も、気をつけてっ! これは、闇魔法です! フィリス王女は、魔法で攻撃しようとしているのです」


(闇魔法……!)


 ブルーベルは、必死に、落ち着こうと努めた。


(今まで、一度も体感したことはないけれど、これが、フィリスお姉様の操る闇魔法)


 ローリンが動く気配がした。


「ブルーベル様、騎士が外にいます。ここを出てください! 私達が王女を止めます……」


「お黙り!!」


 再び、暗闇の中に、重い衝撃が放たれる。


 ドン! という激しい音がして、今度はローリンのくぐもったうめき声が響いた。


「ローリンさん!!」


 ブルーベルは叫んだ。

 ミカとローリンを助けたいが、深い闇の中で、彼らがどこにいるかすらわからない。


 ミカとローリンは、自分をかばったのではないだろうか?

 ブルーベルの指先が震え始めた。


 ブルーベルの心臓が恐ろしいくらい、鳴り響いている。

 フィリスが、こんなにも簡単に、人に魔法を向けるなんて。

 そんなことができる人だったなんて。


(謝りたいなんて、嘘だった)


 ブルーベルの目から、涙がこぼれた。

 このまま、フィリスに傷つけられるの?

 ドゥセテラにいた頃のように?

 いや、そんなことは、許せない。


 自分を大切にしてくれたこの場所で。

 自分を大切にしてくれた人々が、自分のために、倒れていく。

 自分のせいで……。


(ローリンさんは、外へ行け、と言った。玄関ドアはすぐ近くにあるはず)


 その時、ブルーベルは、自分の肩先を優しく押す、慣れ親しんだ感覚を感じた。

 ブルーベルは、はっとする。


 まるで体から発光するように、淡い光をまとった、ユニコーンの姿が見えてきた。

 ユニコーンはブルーベルを励ますかのように、鼻先でブルーベルの肩を優しく押している。


(大丈夫。落ち着こう)


 ブルーベルは深呼吸をした。


「精霊達よ……」


 ブルーベルは暗闇を見据えた。

 たとえ目で見えなくても、彼らは、いる。


「精霊達よ、お願い、みんなを守って! アルヴァロ様がいない間に、誰かが傷つくなんて。そんなことがあってはいけない……!」


 まだぼやけてはいるが、薄闇の中に、フィリスがミカとローリンの間に立って、どちらに先に行くべきか迷っている様子が見えてきた。


 ユニコーンの体の輝きが強くなった。

 その光の中に、ブルーベルはフィリスの姿をはっきりと見つけた。


 ブルーベルは恐れることなく、まっすぐと、フィリスを見つめた。

 ブルーベルは心の中で、精霊達に語りかける。


(火の精霊ダローグよ、わたしに力を貸して。炎で、周囲を照らせ)


 ぼう……っと、突然、ブルーベルとフィリスの間に、炎が上がった。

 暗闇に包まれていた玄関ホールに、光が生まれる。


「なっ……!?」


 フィリスは、驚いて、数歩下がる。

 ブルーベルは再び、心の中で、精霊に語りかける。


(風の精霊グインよ、わたしに力を貸して。炎の檻を作るのだ)


 炎がいきなり風に煽られて、フィリスの周囲を囲んだ。

 炎から逃れようとするが、炎はフィリスが動く度に、自由自在にその形を変え、逃がさない。


「きゃあ……っ!」


 炎に体が触れたフィリスが叫んだ。

 慌てて体を小さくして、炎から遠ざかろうとする。

 一方、炎は動いて、フィリスをホールの角へと追い込んでいく。


 ブルーベルは、精霊に語りかける。


(精霊達よ、この屋敷と屋敷の人々は傷つけないで)

(承知)


「ミカ、ローリン、ドアは見える? 外に出て、騎士達を呼んで」

「かしこまりました、ブルーベル様!」


 急いで外に向かう二人を、フィリスは悔しげに見送った。

 ブルーベルの操る炎は、衰えることなく、フィリスを取り囲んで、その動きを封じていた。


「ブルーベル、あなた……いつの間に……。火と風を操るなんて……、どういうことなの!? 地味な土魔法しか使えなかったくせに……それに何、そのユニコーン……!」


 フィリスは炎越しに、逃げることなく自分に立ち向かう妹を睨みつけた。


 炎に透けて見える、長い銀の髪。

 青とも紫ともつかぬ、幻想的な色の瞳。


 顔の右半分は、相変わらず、銀の仮面で覆われていた。


 なのに、ブルーベルは、変わらず、美しかった。

 そのことが、フィリスの心を深く傷つける。


 一目瞭然の、質の高い素材を使い、丁寧に仕立てられた、アルタイスのドレス。

 左手の指にはめられた、花を象った指輪。


 久しぶりに見るブルーベルは、以前より健康的で、髪や体もきれいに手入れをされているのがわかる。


 それは、政略結婚であるはずの、ヴィエント公爵に愛されている証拠だった。


 ブルーベルを心配する召使い達の存在。

 まるでブルーベルに寄り添うかのようにして立つ、稀有な幻獣ユニコーン。


 なぜ、ブルーベルばかりが?


 仮面姿にも関わらず、アルヴァロに、そして人々に愛されているブルーベルに、フィリスは今までにないほどの強い怒りを感じた。


 自分は、姉妹の中で一番美しいにも関わらず、夫である皇帝に愛されず、国を追い出されたも同然の身の上。


 アルセスが言うように、ブルーベルをこの島から連れ出して、アルセスに引き渡したとしても、アルセスが約束するように、自分を名実ともに正妃として扱うと、信用することはできない……。


(どうして、ブルーベルは愛される?)

(顔に仮面があって、美しさはもう失われたのに、なぜ愛されるの?)


 しかし、フィリスの問いに答える者は誰もいない。

 ただ、フィリスの中にある理不尽な復讐心だけが、彼女に語りかける。


 邪魔者は、排除せよ、と。


(許せない……わたくしは、愛されないのに)


 フィリスは、心を決めた。

 答えが出ない問いは、持ち続けても意味がない。

 ならば、その問いを生み出すものを排除するまで。


(ブルーベルを殺し、この屋敷を破壊する)


 胸元を探り、首にかけている、黒水晶のペンダントを出した。

 黒水晶を外し、右手に持つと、詠唱をしながら、床の上に素早く魔法陣を描いていく。


 黒水晶から、まるで溶けた黒ロウソクのような液体が流れ出し、複雑な模様を床に映し出していく。

 そして、魔法陣が完成した。


 一瞬、フィリスの体は陽炎のような光に包まれ、次の瞬間、かき消すように姿が消えた。


「フィリスお姉様!?」


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?