階段を降りる一歩一歩が、震えた。
そしてようやく一階に降りた時、玄関ホールに立っていたその人は、ゆっくりと振り返った。
「ブルーベル?」
色白の肌。
艶やかな黒髪は、既婚の女性らしく、上品に結い上げられている。
しかし、身に付けているのは、以前と変わらず、彼女の好きな、赤のドレス。
まるで、華やかな王女だった頃を
ブルーベルは、そんな姉の姿に、かすかな違和感を覚える。
「……まあ。見違えたわ。元気そうで、嬉しいわ」
にこりと微笑みの形にカーブを描く、赤い唇。
しかし、彼女の黒い瞳を見て、その言葉が彼女の本当の想いかどうか、ブルーベルは判断しかねる、そんな気持ちになった。
フィリス・ノワール。
故国、ドゥセテラ王国の第一王女。
幼い頃から、何をするにも秀でて、人々の賞賛を自分のものにしていた、彼女。
アルタイスに来て、人の本当の優しさに触れたブルーベルは、自分の父や義母達、そして義姉達が、決して自分に好意を持っていたわけではないことに、気づいてしまった。
ドゥセテラにあのままずっといたら、きっと、気づかなかったかもしれない、それは残酷な事実でもあった。
フィリスは、微笑んだまま、じり、じりっと、ブルーベルに近づいてくる。
そこには、ローリンも、ミカもいた。
誰もが、じっと、この姉妹の再会を音ひとつ立てることなく、見守っていた。
「ブルーベル、わたくしの可愛い妹。あなたに、心からの謝罪を言うために来たのよ。わたくし、ようやく気づいたの。どんなに、あなたにひどいことをしていたかって……」
透明な涙が、フィリスの頬に伝った。
「ごめんなさい、ブルーベル」
それは何についての、謝罪だったのか。
「フィリスお姉様……」
困惑したような、ブルーベルの声に、フィリスは内心、にやりと笑う。
「お願いよ、わたくしを助けてちょうだい。わたくしは騙されたの。あの男、カラスカスの皇帝アルセスは、すでに宮殿に愛妾を囲っていたわ。わたくしは、たとえ正妃であっても、その女の下なの。皇帝はわたくしのことを、少しも大切にしようとはなさらないの。わたくしには、そんな生活はもう、耐えられない」
これは、本当のことだ。
嘘を本当らしくするには、嘘の中に真実を混ぜること。
人のいいブルーベルはすぐにだまされるだろう。
「お姉様」
ブルーベルがそっとフィリスに手を差し出した時だった。
「いけません! ブルーベル様っ!!」
ミカが叫んだ。
「ミカ!?」
ミカはブルーベルの手を掴むと、思いきり引っ張って、フィリスから引き離した。
素早く、ブルーベルを自分の背後に隠す。
ローリンも素早く動いて、ブルーベルとフィリスの間に入った。
もう少しで、ブルーベルに触れるところだったフィリスが、じっと、ミカを見つめた。
「……わたくしの邪魔をするなんて、許せないわ」
フィリスが呟き、素早く詠唱をすると、屋敷内は、一転して暗闇に包まれた。
「フィリスお姉様!?」
ブルーベルは突然の暗闇の中で、ただ立ち尽くした。
この空間は、おかしい。
光がないだけではない。
ブルーベルの上下左右の感覚もまた、おかしくなっていた。
自分がどこにいるのか、わからなくなってくる。
その時だった。
再び、ミカの声が響いた。
「ブルーベル様、この人を信用してはいけません!」
「うるさい!」
フィリスが吠えるように叫んだ。
何か、ずん、と腹に響くような、重い感覚が四方八方に飛び散っていく。
目には見えないが、重量のある何かが放たれた、そんな感覚がした。
それに触れれば、おそらく肉体にダメージを受ける。
ブルーベルは本能的に、体を小さくして、しゃがみ込んだ。
ごふ、っと誰かがうめいた。
「う……!」
「ミカ!? 大丈夫!?」
「大丈夫です。ブルーベル様も、気をつけてっ! これは、闇魔法です! フィリス王女は、魔法で攻撃しようとしているのです」
(闇魔法……!)
ブルーベルは、必死に、落ち着こうと努めた。
(今まで、一度も体感したことはないけれど、これが、フィリスお姉様の操る闇魔法)
ローリンが動く気配がした。
「ブルーベル様、騎士が外にいます。ここを出てください! 私達が王女を止めます……」
「お黙り!!」
再び、暗闇の中に、重い衝撃が放たれる。
ドン! という激しい音がして、今度はローリンのくぐもったうめき声が響いた。
「ローリンさん!!」
ブルーベルは叫んだ。
ミカとローリンを助けたいが、深い闇の中で、彼らがどこにいるかすらわからない。
ミカとローリンは、自分をかばったのではないだろうか?
ブルーベルの指先が震え始めた。
ブルーベルの心臓が恐ろしいくらい、鳴り響いている。
フィリスが、こんなにも簡単に、人に魔法を向けるなんて。
そんなことができる人だったなんて。
(謝りたいなんて、嘘だった)
ブルーベルの目から、涙がこぼれた。
このまま、フィリスに傷つけられるの?
ドゥセテラにいた頃のように?
いや、そんなことは、許せない。
自分を大切にしてくれたこの場所で。
自分を大切にしてくれた人々が、自分のために、倒れていく。
自分のせいで……。
(ローリンさんは、外へ行け、と言った。玄関ドアはすぐ近くにあるはず)
その時、ブルーベルは、自分の肩先を優しく押す、慣れ親しんだ感覚を感じた。
ブルーベルは、はっとする。
まるで体から発光するように、淡い光をまとった、ユニコーンの姿が見えてきた。
ユニコーンはブルーベルを励ますかのように、鼻先でブルーベルの肩を優しく押している。
(大丈夫。落ち着こう)
ブルーベルは深呼吸をした。
「精霊達よ……」
ブルーベルは暗闇を見据えた。
たとえ目で見えなくても、彼らは、いる。
「精霊達よ、お願い、みんなを守って! アルヴァロ様がいない間に、誰かが傷つくなんて。そんなことがあってはいけない……!」
まだぼやけてはいるが、薄闇の中に、フィリスがミカとローリンの間に立って、どちらに先に行くべきか迷っている様子が見えてきた。
ユニコーンの体の輝きが強くなった。
その光の中に、ブルーベルはフィリスの姿をはっきりと見つけた。
ブルーベルは恐れることなく、まっすぐと、フィリスを見つめた。
ブルーベルは心の中で、精霊達に語りかける。
(火の精霊ダローグよ、わたしに力を貸して。炎で、周囲を照らせ)
ぼう……っと、突然、ブルーベルとフィリスの間に、炎が上がった。
暗闇に包まれていた玄関ホールに、光が生まれる。
「なっ……!?」
フィリスは、驚いて、数歩下がる。
ブルーベルは再び、心の中で、精霊に語りかける。
(風の精霊グインよ、わたしに力を貸して。炎の檻を作るのだ)
炎がいきなり風に煽られて、フィリスの周囲を囲んだ。
炎から逃れようとするが、炎はフィリスが動く度に、自由自在にその形を変え、逃がさない。
「きゃあ……っ!」
炎に体が触れたフィリスが叫んだ。
慌てて体を小さくして、炎から遠ざかろうとする。
一方、炎は動いて、フィリスをホールの角へと追い込んでいく。
ブルーベルは、精霊に語りかける。
(精霊達よ、この屋敷と屋敷の人々は傷つけないで)
(承知)
「ミカ、ローリン、ドアは見える? 外に出て、騎士達を呼んで」
「かしこまりました、ブルーベル様!」
急いで外に向かう二人を、フィリスは悔しげに見送った。
ブルーベルの操る炎は、衰えることなく、フィリスを取り囲んで、その動きを封じていた。
「ブルーベル、あなた……いつの間に……。火と風を操るなんて……、どういうことなの!? 地味な土魔法しか使えなかったくせに……それに何、そのユニコーン……!」
フィリスは炎越しに、逃げることなく自分に立ち向かう妹を睨みつけた。
炎に透けて見える、長い銀の髪。
青とも紫ともつかぬ、幻想的な色の瞳。
顔の右半分は、相変わらず、銀の仮面で覆われていた。
なのに、ブルーベルは、変わらず、美しかった。
そのことが、フィリスの心を深く傷つける。
一目瞭然の、質の高い素材を使い、丁寧に仕立てられた、アルタイスのドレス。
左手の指にはめられた、花を象った指輪。
久しぶりに見るブルーベルは、以前より健康的で、髪や体もきれいに手入れをされているのがわかる。
それは、政略結婚であるはずの、ヴィエント公爵に愛されている証拠だった。
ブルーベルを心配する召使い達の存在。
まるでブルーベルに寄り添うかのようにして立つ、稀有な幻獣ユニコーン。
なぜ、ブルーベルばかりが?
仮面姿にも関わらず、アルヴァロに、そして人々に愛されているブルーベルに、フィリスは今までにないほどの強い怒りを感じた。
自分は、姉妹の中で一番美しいにも関わらず、夫である皇帝に愛されず、国を追い出されたも同然の身の上。
アルセスが言うように、ブルーベルをこの島から連れ出して、アルセスに引き渡したとしても、アルセスが約束するように、自分を名実ともに正妃として扱うと、信用することはできない……。
(どうして、ブルーベルは愛される?)
(顔に仮面があって、美しさはもう失われたのに、なぜ愛されるの?)
しかし、フィリスの問いに答える者は誰もいない。
ただ、フィリスの中にある理不尽な復讐心だけが、彼女に語りかける。
邪魔者は、排除せよ、と。
(許せない……わたくしは、愛されないのに)
フィリスは、心を決めた。
答えが出ない問いは、持ち続けても意味がない。
ならば、その問いを生み出すものを排除するまで。
(ブルーベルを殺し、この屋敷を破壊する)
胸元を探り、首にかけている、黒水晶のペンダントを出した。
黒水晶を外し、右手に持つと、詠唱をしながら、床の上に素早く魔法陣を描いていく。
黒水晶から、まるで溶けた黒ロウソクのような液体が流れ出し、複雑な模様を床に映し出していく。
そして、魔法陣が完成した。
一瞬、フィリスの体は陽炎のような光に包まれ、次の瞬間、かき消すように姿が消えた。
「フィリスお姉様!?」