目を見張る。
喧騒が遠のく。
慌てて振り返れば、それはパーテーションボードの先へと伸びている。
「え、え……?」
急いで飛び出せば、そこには土曜日で溢れんばかりの人に満ちていた。
それでも、私の視線を捉えて離さないのは、毛糸ほどの青い糸。誰も見向きもしないし、引っかかりもしない。何度もすり抜けては人混みの先へと繋がっている。
うそ、うそでしょ。
ギュッと手を握る。汗がにじむ。背中にも伝う。心臓の音は先ほどからいやに早い。
これ……って。
間違いない。
私はこの糸を、二年前までずっと見続けてきた。
忌々しくて、煩わしくて、消えてほしいと願ってきた。
私と彼が運命の人じゃないことを示す、最悪の糸だから。
そして、この青い糸は繋がれた相手が近くにいないと現れることはない。それが意味することはつまり、“彼"が近くにいるということだ。
近くから、通行人の「邪魔だ」という苛立ちの声が聞こえた。けれど私は、金縛りにあったみたいに動けなかった。
思考の渦は生まれてから一番と言っていいほどに素早く回転し、私の中を巡り巡っていた。
私は、どうしたらいい――?
心が問う。
――彼は、運命の人じゃない。
今の私が答える。
でも私は、彼のことが……――
心がすがる。
――彼の不幸は、見たくない。
昔の私が答える。
でも、だって、私は……――っ
心が泣く。
――彼には、幸せになってほしいでしょ?
私が微笑む。
私は、わたしは……――
心が俯く。私が慰めてくる。諦めなさいと、飲み込みなさいと、大人になりなさいと、視線を合わせてくる。
でも、わたしは……
――春見、好きだ。
彼の声が聞こえた。
彼の笑顔とともに、先ほど心を貫かれた青と赤の糸の絵が、目の前に浮かんだ。
弾かれたように私は駆け出す。
「ごめんなさい! 通して!」
列を押しのけ、人混みを掻き分け、怒号を背中に受けながら私は駆けた。
先へと伸びる青い糸を必死に追う。見失わないように、消えてしまわないように、真っ直ぐに見据える。
意味がわからない。自分でもわからない。わからないわからないわからないっ。
それなのになぜか、青い糸を辿らずにはいられなかった。そして――
「高坂くんっ!」
駅の東口を抜けた先で、私は
「え……しお、ん?」
突然私に手を掴まれた相手――高坂くんは、驚愕に目を見張っていた。
茜色の空の下。
東口前の噴水広場で、私は二年ぶりに高坂くんと再会した。
「……っ、と、あ、その」
小さく肩で息をしながら、私は言葉を探す。けれど、頭の中は真っ白だった。中途半端に開いた口からは、乾いた息が漏れるばかりだ。
「……」
私の名前を呼んだきり、高坂くんもなにも言わない。見れば最後に会ったときより身長は伸び、服装も大学生らしく大人っぽくなっている。青い糸がなかったらきっとわからなかった。
もしかして、わからないほうがよかった?
一瞬そんな考えがよぎるも、慌てて頭を振ってかき消す。
そんなことない。
私はずっと、言いたかったんだ。
「高坂くん……。私は、あなたが好きです」
ぼやけた視界のまま、私は正面から彼を見据えた。
「本当にごめんなさい。あんな手紙で一方的に別れを告げてしまって、高坂くんが目を覚ます前にいなくなってしまって、ほかにもたくさん……ごめんなさい」
自然と声が震えた。でも、しゃくりあげるのだけは必死に堪えた。
「私はあの事故のあと、高坂くんが不幸に遭うのを見たくないと思った。これから先、もし同じようなことが起こったらと思うと、怖くて怖くてたまらなかった。もしそうなるなら、離れたほうがいいと思った。そのほうが、高坂くんはきっと幸せになれるから」
高坂くんは黙ったまま、私の言葉に頷いてくれた。
「でも、でもでも……っ! 私はやっぱり、どうしてもあなたのことが忘れられなかった。好きだった。会いたかった。謝りたかった。ぜんぶ話して、一緒にいたかった……っ!」
彼の服にしがみつきたくなった。でも、堪える。
「ただ、それでも……高坂くんには不幸になってほしくない。またあんな大怪我をしてほしくない。高坂くんには幸せになってほしい。この気持ちも、本物なの……」
視線が下がる。堪えようとする。でも、力が入らなかった。
「私は、わたしは……どうしたら良かったのかな」
地面を見つめて、私は訊く。
いまさら、こんなことを訊いてもどうしようもないのに。
あれから二年以上経っていて、すでに袂は分かれているのに。
なんで、いまさら……。
「……っ、ご、ごめん。なに言ってんだろ、私。今の全部忘れて。ぐ、偶然あなたを見かけて、声をかけただけ」
「一緒に考えよう、紫音」
懐かしい温もりが、私を包み込んだ。
「俺のほうこそ、ごめん。俺、ずっと迷ってばっかだった。紫音から手紙で別れを告げられて、すげーショックで、本当はすぐにでも連絡とりたかったけど……とれなかった。紫音の気持ち考えたら、俺が紫音の立場だったら、同じことをしてしまうかもしれないって思ったから。それなら、俺にできることは紫音を忘れて、新しい恋とかして、べつの幸せを見つけることだって思った。でも、無理だった」
「え?」
「俺、紫音のことぜんぜん忘れられなかった。高校に復帰してからも、地元の大学に通うようになってからも、他の人を好きになるなんてできなかった。美味いものを食べたら紫音と一緒に食べたいって思ってて、綺麗な景色を見たら紫音と一緒に見たいって思ってた。俺の中で、紫音は本当にかけがえのない存在になってた」
ギュッと抱きしめられる。背中に回された手に力が込められる。
「そこで思ったんだ。俺はやっぱり、紫音と一緒にいたいって。そして気がついたら、筆を握ってた。手は完全に治ってたけど絵を描くことからは遠のいてて、時間はかかったけど一番描きたかった絵を描くことができた」
「それが、あそこに飾られてた……?」
「そう。見てくれたんだ。あれが、今の俺の気持ち」
額に軽い感触があった。彼の顔が驚くほど近くにあった。鼻先に息がかかり、頬が熱くなる。
「紫音、俺は今もずっと、紫音のことが好きだ。紫音と一緒に不幸を乗り越えたいし、幸せを作り上げていきたい。そのためになにができるか、一緒に考えたい。一緒に未来を、描いていきたいんだ」
「高坂、くん……」
彼の瞳も潤んでいた。その瞳が優しげに細くなる。
「それと、紫音に名前で呼ばれて、好きって言われたい」
「あ……」
唇に、柔らかな感触があった。
トクトクと心臓が心地良い音を鳴らす。
私は目を閉じて、応えるようにしなだれかかった。
温かい。
本当に温かった。
こんなに安心感に包まれたのは、初めてだった。
数秒にも満たないキスのあとに、私は叫んだ。
「実くんっ、大好き……!」
ずっとずっと言えなかった想いを、きみの名前を。
全力の声に乗せて叫んだ。
後悔なんて、一ミリもなかった。
彼は恥ずかしそうに、幸せそうに笑っていた。
私も、堪えきれずに笑った。
あなたのことが、大好きだから。