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第38話 あなたのことが大好きだから

 目を見張る。

 喧騒が遠のく。

 慌てて振り返れば、それはパーテーションボードの先へと伸びている。


「え、え……?」


 急いで飛び出せば、そこには土曜日で溢れんばかりの人に満ちていた。

 それでも、私の視線を捉えて離さないのは、毛糸ほどの青い糸。誰も見向きもしないし、引っかかりもしない。何度もすり抜けては人混みの先へと繋がっている。


 うそ、うそでしょ。


 ギュッと手を握る。汗がにじむ。背中にも伝う。心臓の音は先ほどからいやに早い。


 これ……って。


 間違いない。

 私はこの糸を、二年前までずっと見続けてきた。

 忌々しくて、煩わしくて、消えてほしいと願ってきた。

 私と彼が運命の人じゃないことを示す、最悪の糸だから。

 そして、この青い糸は繋がれた相手が近くにいないと現れることはない。それが意味することはつまり、“彼"が近くにいるということだ。

 近くから、通行人の「邪魔だ」という苛立ちの声が聞こえた。けれど私は、金縛りにあったみたいに動けなかった。

 思考の渦は生まれてから一番と言っていいほどに素早く回転し、私の中を巡り巡っていた。


 私は、どうしたらいい――?


 心が問う。


 ――彼は、運命の人じゃない。


 今の私が答える。


 でも私は、彼のことが……――


 心がすがる。


 ――彼の不幸は、見たくない。


 昔の私が答える。


 でも、だって、私は……――っ


 心が泣く。


 ――彼には、幸せになってほしいでしょ?


 私が微笑む。


 私は、わたしは……――


 心が俯く。私が慰めてくる。諦めなさいと、飲み込みなさいと、大人になりなさいと、視線を合わせてくる。

 でも、わたしは……



 ――春見、好きだ。



 彼の声が聞こえた。

 彼の笑顔とともに、先ほど心を貫かれた青と赤の糸の絵が、目の前に浮かんだ。

 弾かれたように私は駆け出す。


「ごめんなさい! 通して!」


 列を押しのけ、人混みを掻き分け、怒号を背中に受けながら私は駆けた。

 先へと伸びる青い糸を必死に追う。見失わないように、消えてしまわないように、真っ直ぐに見据える。

 意味がわからない。自分でもわからない。わからないわからないわからないっ。

 それなのになぜか、青い糸を辿らずにはいられなかった。そして――


「高坂くんっ!」


 駅の東口を抜けた先で、私はを掴んだ。


「え……しお、ん?」


 突然私に手を掴まれた相手――高坂くんは、驚愕に目を見張っていた。

 茜色の空の下。

 東口前の噴水広場で、私は二年ぶりに高坂くんと再会した。


「……っ、と、あ、その」


 小さく肩で息をしながら、私は言葉を探す。けれど、頭の中は真っ白だった。中途半端に開いた口からは、乾いた息が漏れるばかりだ。


「……」


 私の名前を呼んだきり、高坂くんもなにも言わない。見れば最後に会ったときより身長は伸び、服装も大学生らしく大人っぽくなっている。青い糸がなかったらきっとわからなかった。

 もしかして、わからないほうがよかった?

 一瞬そんな考えがよぎるも、慌てて頭を振ってかき消す。

 そんなことない。

 私はずっと、言いたかったんだ。



「高坂くん……。私は、あなたが好きです」



 ぼやけた視界のまま、私は正面から彼を見据えた。


「本当にごめんなさい。あんな手紙で一方的に別れを告げてしまって、高坂くんが目を覚ます前にいなくなってしまって、ほかにもたくさん……ごめんなさい」


 自然と声が震えた。でも、しゃくりあげるのだけは必死に堪えた。


「私はあの事故のあと、高坂くんが不幸に遭うのを見たくないと思った。これから先、もし同じようなことが起こったらと思うと、怖くて怖くてたまらなかった。もしそうなるなら、離れたほうがいいと思った。そのほうが、高坂くんはきっと幸せになれるから」


 高坂くんは黙ったまま、私の言葉に頷いてくれた。


「でも、でもでも……っ! 私はやっぱり、どうしてもあなたのことが忘れられなかった。好きだった。会いたかった。謝りたかった。ぜんぶ話して、一緒にいたかった……っ!」


 彼の服にしがみつきたくなった。でも、堪える。


「ただ、それでも……高坂くんには不幸になってほしくない。またあんな大怪我をしてほしくない。高坂くんには幸せになってほしい。この気持ちも、本物なの……」


 視線が下がる。堪えようとする。でも、力が入らなかった。


「私は、わたしは……どうしたら良かったのかな」


 地面を見つめて、私は訊く。

 いまさら、こんなことを訊いてもどうしようもないのに。

 あれから二年以上経っていて、すでに袂は分かれているのに。

 なんで、いまさら……。


「……っ、ご、ごめん。なに言ってんだろ、私。今の全部忘れて。ぐ、偶然あなたを見かけて、声をかけただけ」


「一緒に考えよう、紫音」


 懐かしい温もりが、私を包み込んだ。


「俺のほうこそ、ごめん。俺、ずっと迷ってばっかだった。紫音から手紙で別れを告げられて、すげーショックで、本当はすぐにでも連絡とりたかったけど……とれなかった。紫音の気持ち考えたら、俺が紫音の立場だったら、同じことをしてしまうかもしれないって思ったから。それなら、俺にできることは紫音を忘れて、新しい恋とかして、べつの幸せを見つけることだって思った。でも、無理だった」


「え?」


「俺、紫音のことぜんぜん忘れられなかった。高校に復帰してからも、地元の大学に通うようになってからも、他の人を好きになるなんてできなかった。美味いものを食べたら紫音と一緒に食べたいって思ってて、綺麗な景色を見たら紫音と一緒に見たいって思ってた。俺の中で、紫音は本当にかけがえのない存在になってた」


 ギュッと抱きしめられる。背中に回された手に力が込められる。


「そこで思ったんだ。俺はやっぱり、紫音と一緒にいたいって。そして気がついたら、筆を握ってた。手は完全に治ってたけど絵を描くことからは遠のいてて、時間はかかったけど一番描きたかった絵を描くことができた」


「それが、あそこに飾られてた……?」


「そう。見てくれたんだ。あれが、今の俺の気持ち」


 額に軽い感触があった。彼の顔が驚くほど近くにあった。鼻先に息がかかり、頬が熱くなる。


「紫音、俺は今もずっと、紫音のことが好きだ。紫音と一緒に不幸を乗り越えたいし、幸せを作り上げていきたい。そのためになにができるか、一緒に考えたい。一緒に未来を、描いていきたいんだ」


「高坂、くん……」


 彼の瞳も潤んでいた。その瞳が優しげに細くなる。


「それと、紫音に名前で呼ばれて、好きって言われたい」


「あ……」


 唇に、柔らかな感触があった。

 トクトクと心臓が心地良い音を鳴らす。

 私は目を閉じて、応えるようにしなだれかかった。

 温かい。

 本当に温かった。

 こんなに安心感に包まれたのは、初めてだった。

 数秒にも満たないキスのあとに、私は叫んだ。



「実くんっ、大好き……!」



 ずっとずっと言えなかった想いを、きみの名前を。


 全力の声に乗せて叫んだ。


 後悔なんて、一ミリもなかった。


 彼は恥ずかしそうに、幸せそうに笑っていた。


 私も、堪えきれずに笑った。


 あなたのことが、大好きだから。


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