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第37話 青い糸が繋ぐ縁

 お父さんから、大学の入学祝いを渡したいから久しぶりに帰ってこないかと連絡があったのは、春先のことだった。ちょうどサークルの新歓合宿が終わり、大学の講義にも少しずつ慣れてきていた。

 私も久しぶりにお父さんや美菜に会いたかったし、お母さんに頼むとすんなり了承してくれた。けれどもちろん、お母さんは行かないと首を振っていた。

 ひとりで新幹線に乗り、三度の乗り換えを経て私は約二年ぶりに帰ってきた。改札を抜けると、お父さんが笑顔で手を振っていた。


「やあ、紫音。久しぶり。なんだか大人っぽくなったなあ」


「久しぶり。お父さんは相変わらずだね」


 少しだけ白髪の増えた頭を一瞥してから、私はなんでもないふうに笑いかけた。たった二年しか離れていなかったのに、なんだか見えない距離ができていた。

 それから私たちは、最近お父さんが行きつけだと言うレストランで昼食を食べた。よく家族で来ていたレストランと内装はかなり違っていて、外国にあるような煌びやかな雰囲気だった。


「お父さん、こんなオシャレなとこ来てるんだ」


「まあな。ここのムニエルが絶品なんだ」


 前はあんなに肉ばかり食べていたのに、お父さんはそう言ってヒラメのムニエルを注文した。その時にウェイトレスのお姉さんと親しげに話していて、紹介された私はただ愛想笑いを浮かべるしかなかった。


 結局、こんなものだ。

 一度離れてしまえば、その人はその人なりの新しい楽しみや幸せを見つける。

 それでいいと思うし、そのほうが絶対にいい。

 だからきっと、高坂くんも私なんかのことは忘れて、新しい恋をして新しい幸せを感じているだろう。


 そうで、あってほしい。



 *



 お父さんとわかれたあと、私は約束していた美菜と合流した。


「やっほー、紫音。久しぶり」


 高校時代によく行っていたカフェの扉を開けると、入り口近くのテーブル席で美菜が手を振っていた。高坂くんの容体や友達のこと、学校のことなんかでメッセージや電話はしていたけれど、直接会うのは送別会をしてくれた時以来だ。

 私も手を振り返してから、その向かいの席に腰を下ろす。


「ほんと久しぶりだね、美菜。元気だった?」


「んー紫音が転校してから寂しくて寂しくて食事も喉を通らなくて五キロ太った」


「いや待って、なんでそこで太るの」


「そりゃーもちろん、学校の近くにオープンしたカフェに湊……藤村と放課後に行って、新作ケーキたくさん食べてたから」


「あははっ、超元気じゃん」


 二年ぶりの再会だったけど、特別気まずさもなく私たちはすぐ会話に花を咲かせた。

 美菜は今も藤村くんと付き合っており、大学も同じで半同棲みたいになっているらしい。高校の時の藤村くんは女子には奥手だったが、今では随分と慣れて逆にドキドキさせられることも多いのだとか。十八歳の誕生日の時はサプライズをされてあやうく失神しそうだったと笑っていた。

 また私が転校したあと、夏休み明けにクラスの中でカップルがたくさん誕生したらしい。ただそのうちの一人がクラスの中で二股をしており、十月ごろに一悶着あったと美菜は苦笑いしていた。私は、新学期の時に見た五本の青い糸を思い出した。

 そのほかにも、私のこっちでの生活やお互いの大学の様子などたくさんのことを話した。二年の時間を超えて、私たちは大学生から高校二年生に戻っていた。


「それでさ、紫音。高坂のことだけど」


「うん。あの時はごめんね」


 ただひとつ、戻っていないこともある。


「本当に、もういいの?」


 美菜はコーヒーを一口飲んでから、心配そうに私を見た。高校生の時、教室でよくいじられた時の表情となぜか重なった。

 私も頼んだ紅茶を口に含んで、そして小さく頷く。


「いいの。もう、十分だから」


「なんだか、自分に言い聞かせているように聞こえるけど?」


「あははっ、なんで。そんなことないよ。今も結構、楽しいし」


 さらにひと口、私は紅茶を飲んだ。ほろ苦い風味が舌から鼻へと通り抜ける。


「ふーん? じゃあもし、私が今から高坂をここに呼んでもいいって訊いたら?」


「んぐっ!?」


 予想外の言葉に私は盛大にむせた。ほろ苦いどころじゃない刺激が鼻から目にまで染み込んでくる。


「いや、もしもよもしも。さすがに今すぐここには来れないだろうし」


「だ、だよね」


 美菜から手渡されたナプキンで口元を拭きつつ、私は少し考えた。けれど、結局私は首を横に振った。


「まあ、それでも私の考えは変わらないよ。私はもう、高坂くんと付き合うつもりはない」


「不安になるから?」


「うん……そう」


 脳裏に思い出が蘇る。

 夕暮れ時の公園で、高坂くんから初めて告白された日のこと。

 不幸の青い糸が私と高坂くんを繋いでいて、私は断腸の思いで彼の告白を断った。けれどまた告白されて、想いに押されて付き合って、楽しい日々を過ごして、高坂くんは未来の不幸より今の気持ちを大切にって言ってくれて、不幸になるなんて幻かもなんて思った矢先に、それは起こった。

 何事も、実際に体験してみなければわからない。私はもう、彼が不幸な目に遭うのを見たくない。私と彼を繋ぐ青い糸が視界に映るたびに、私は絶対に不安に苛まれる。そんな日々を過ごしたくない。

 私は高坂くんに、不幸じゃなくて幸せになってほしい。

 だって私は、高坂くんのことが好きだから――。


「……そっか。ちなみに、今付き合っている人はいないんだよね?」


「う、うん」


「気になってる人は?」


「いや……いない」


「ふーん、そっか」


 美菜はまだなにか言いたげにしていたが、飲み込むようにまたコーヒーに口をつけた。

 不幸の青い糸は、あの日以降一度も私の指から伸びていない。



 *



 美菜とわかれてから、私は駅へと向かった。

 美菜はこれから藤村くんと合流するらしい。ショッピングモールで買い物したあとにちょっとオシャレなレストランでディナーだそうだ。


「紫音! やらない後悔よりやって後悔だからね! そして後悔しなくなるまでやるんだよ! 高校卒業しても、青春は卒業しないでよー!」


 バス停に向かう去り際に、美菜はそんな恥ずかしい言葉を叫んでいた。周囲の視線がちくちくと刺さる中、私は笑って小さく頷いておいた。

 本当に、美菜は美菜だった。

 あそこまで真っ直ぐになれるのは一種の才能だと思う。憧れて頑張ってみた時期もあるけれど、やっぱり私は私だった。

 帰宅ラッシュで混雑する駅構内を人の流れに乗って進んでいく。

 新幹線の時間まではまだかなり余裕があった。本当はもう少しゆっくりしたい気持ちもあるけれど、あまりこっちに長居するのも憚られた。さすがに会うことは、ないと思うけれど。

 なんとなく周囲を見渡せば、所々に例の青い糸が浮かんでいるのが目に入った。カップルらしき人たちを繋いでいるものや、ベビーカーを押して仲睦まじく話し込んでいる夫婦を繋いでいるもの、会社の同僚らしき人たちを繋いでいるものもある。

 この世の中には、どれだけの不幸が潜んでいるんだろうか。

 あんなに楽しそうで幸せそうなのに、いつかは壊れていく。

 理不尽だと思う。不公平だと思う。

 でもきっと、それが縁なんだろう。

 それを受け入れられるようになってこそ、諦められるようになってこそ、大人になれるんだ。

 大人にならないといけないんだ。

 だから、私の判断は間違ってない。

 この経験を糧に私は、幸せになってみせる。

 ごった返す雑踏の中で、私は思い新たに改札に向かおうとして、


「あれ?」


 が、目に留まった。

 混み合う群衆の遥か後ろ、駅構内の隅っこにポツンと作られた、特設コーナーがあった。

 どくんと、心臓がひときわ大きく脈打つ。

 行ってはいけないと、頭の中の私が言っている。無視をして、このままお土産屋さんを見て回るか早めに改札に向かえと言ってくる。

 それでも、私はほとんど無意識のうちに、誘われるように歩みを進めた。


 そこは、小さな展示コーナーだった。

 どうやら、わりと大きな規模の団体が企画した水彩画コンクールの受賞作が飾られているらしく、まるで切り取られた場所のように人はいなかった。

 壁に貼られた大きなポスターには、三桁を超える応募総数に、そこから選出された最優秀賞、審査員賞含め全五作の受賞作が展示されているとあった。


 いつかの日の記憶が蘇る。

 そんなわけはないと思う。

 けれど、確かめたかった。

 もしそうなら、もしそこにあったら、彼が前を向いていることだけでもわかるから。

 震える手を握り締めながら、私はパーテーションボードで仕切られた展示コーナーへ足を踏み入れた。


「ぁ……」


 すぐに、それは目に飛び込んできた。

 想像以上の衝撃が、私の心を貫いた。


「ぁ……あぁ……これ、って……」


 審査員賞の文字の下。

 ボードに掛けられた額縁の中にあったその絵は、青色に染まっていた。

 高台から臨む、遥か彼方まで続く蒼穹の空に、紺碧の海。手前にはひとつひとつが丁寧に描かれたネモフィラが群生している。その勢いのある筆致には、確かな見覚えがあった。

 そして、なにより。


「これって…………私と、糸……?」


 水平線から昇る太陽をバックに、涙を浮かべて笑う少女が振り返りながら左手を差し出していた。

 まるで、手を繋ごうと言っているみたいに。

 その差し出している手、小指の先からは、毛糸ほどの青い糸と、が、手前へと大胆に波打ち伸びていた。


「なんで……どうして……」



 ――青い糸が閃いたのは、その時だった。



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