翌日も、高坂くんは目を覚まさなかった。
それなのに、私は先生や看護師さんのぎこちない笑顔に見送られ病院をあとにした。
「紫音、一緒にいた男の子のこと、瞳から聞いたのね」
車の中で、お母さんは心配そうに言った。きっと、瞳さんかほかの看護師さんから昨夜のことを聞いたんだろう。
私は流れ行く窓の外を眺めながら口を開く。
「うん。でも、教えてって無理にお願いしたのは私だから」
「だけど」
「まあまあ。確かに大きな怪我で気の毒だったけど、命を拾っただけでも良しとせにゃ」
運転をしているお父さんがなんでもないふうにたしなめてくる。イライラした。でも、八つ当たりなのは目に見えていたから我慢した。
一夜を過ぎても、私はどうしたらいいのかわからなかった。
未来の不幸より、今の気持ちを大切にする。
高坂くんや美菜や瞳さんたちと話して、過ごして、ようやくそう思えるようになった。
でも、いざその不幸を眼前に突きつけられると、想像の何倍もしんどかった。よく、「この人となら不幸になってもいいと思える人と一緒になりなさい」なんて言う人がいるけれど、そんなのはただの綺麗事だと思った。こんなふうに傷つくくらいなら、初めから恋人になんかならなければよかった。そんな後悔ばかりが浮かんで、昨夜はまったく寝られなかった。
「さあ、着いたぞ。とりあえず、美味いもんでも食べて気分を変えよう」
車窓からの景色が住宅街を抜け、大通りに入ってしばらく経ったころ、私たちの車はとあるお店の駐車場に入った。
見たことがある外観に看板だった。窓際に置いてある占いのゲームで、小さいころに家族でよく行ったレストランだと思い出した。
「今日は遠慮なくなんでも食べていいからね。やっぱり私たちにとっては紫音、あなたが無事だったことはなにより嬉しいんだから」
涙ぐみながら、お母さんが抱きしめてくる。
嬉しくなかった。恋人があんな大怪我をしているのに、私が無事で良かったと言われてもぜんぜん喜べない。むしろ苛立ちすら覚えてきて、それからそういえばお母さんたちには彼のことを話してなかったなと思った。彼が恋人だと言ってもなければ、言おうという気持ちすら起きなかったから。というか、一ヶ月経つのに恋人ができたと報告したこともない。結局私は、二人の言葉に小さく頷くしかなかった。
車を降りて、懐かしいレンガ造りの店内に入った。オシャレな内装や手の込んだ木組みの天井、そして厨房からの香ばしい匂いが懐かしい。私たちは、案内されるがまま奥のテーブル席についた。
「さっ、紫音。どうする? なに食べたい?」
「遠慮しなくていいからな。お父さんも久しぶりにデラックスダブルステーキセット頼んじゃおうかな」
「もう、お父さん。若くないんだから、明日胃もたれしても知らないわよ?」
「はははっ! 違いない!」
和やかな雰囲気が流れる。落ち着いたジャズの音楽にお昼時の喧騒も合わさって、そこは確かに日常だった。
時々向けられる二人の問いに生返事をしながら、メニューを上から順に眺める。小学生の時はワクワクしながらページをめくっていたっけ、なんて過去を思い出す。でも、その先はぜんぜん記憶がない。チラリと二人に目をやれば、それぞれの左手の小指から青い糸がだらりと垂れ下がっている。
そこで、はたと気づいた。
「ほら、紫音決まった? お父さんはステーキセットで、お母さんはきつねうどんにするんだけど」
「私は……オムライスで」
「はははっ、紫音は昔から野菜炒めとオムライスが好きだよなあ」
ほとんど無意識に口にした食べ物は、ここ最近まったく食べていないもの。
お母さんの得意料理で、お父さんも好きなはずの料理。
二人が喧嘩をするようになってからは、食卓に出なくなった料理。
そして……きっとこれからも、みんなで笑いながら食べることはない料理。
「ねぇ。お母さん、お父さん」
「ん?」
「なあに、紫音?」
「えと……」
注文を終えてから、私は思わず二人を呼んだ。でも、言葉は喉の奥につかえてなかなか出てこない。
「……なんでも、ない。忘れちゃった」
にへらと笑顔をつくる。二人は「なんだそれ」「ふふっ、思い出したら教えてね」と笑いかけてくる。
訊いていいのかわからなかった。訊いちゃいけないことのような気もした。その先にある可能性に、未来に、私はまだ向き合う答えを見つけられていなかった。それに勘違いかもしれないし。
それから学校のことや勉強のこと、美菜たち友達のことを話しているうちに注文した料理が運ばれてきた。
「おっ。このステーキセット、ソースの味変わったのか。結構美味いな」
「うどんは初めて食べたけど、麺のコシがあってとっても美味しいわ」
しばらく来ていないと材料や調理の仕方が変わっているようで、私の食べたオムライスも卵の味が少し甘くなっていた。甘いオムライスは好きだ。ただ、昔食べたオムライスのほうが美味しかったように思えた。
穏やかな時間が流れた。
たわいない会話を三人でしたのは久しぶりだった。
食後には三人ともケーキとコーヒーのセットを頼んだ。ほど良い甘さのケーキとコクのある引き立てコーヒーが絶妙にマッチすると書かれていて、二人とも気に入ったようだった。でも私には、少し苦かった。
どうしようもない違和感が、そこにはあった。
あんなに険悪な雰囲気だった二人が、笑いながら雑談に興じている。無理に明るく振る舞っているような、そんな気配すら感じられた。
やっぱり、そういうことなんだろうと思った。
「ねぇ。お父さん、お母さん」
二人を呼ぶ。今朝見たテレビ番組かなにかの話をしていた二人は同時に私を見た。
「どうした?」
「なに、紫音?」
「あのね」
確かめないといけない。
もしそうなら、またひとつ不幸が形になる。
お父さんのリストラから始まった我が家の不幸の行く末が決まってしまう。けれど……
「なにか私に、話したいことがあるんじゃないの?」
どうしても聞いておかなければいけなかった。
娘としてだけじゃない。私がこれから高坂くんとどうしていくかを決めるためにも、身近にいる不幸の青い糸で繋がれた二人の決断を知りたかった。
私の問いかけに、二人は気まずそうに目を伏せた。何度か探るように互いの顔を見合わせてから、おもむろにお母さんから口を開いた。
「えっと、ね。じつはお母さん、夏から遠くの地方に転勤することになっちゃって。引っ越さないといけないの」
「そのな、お父さんはこっちで仕事をしないとだから、別々に住むことになるんだ」
二人は言葉を選ぶように、ポツポツと説明してくれた。お母さんは勤めている会社の新部署設立でマネージャーを任されることになったこと。それに伴う販路開拓でしばらく地方へ赴任することになったこと。お父さんは家もあるし就いたばかりの職を変えるつもりもないからそのまま住むことなど。
でも、いつまでかは言ってくれなかった。
「ああ、それとね。紫音は通い慣れた高校がこっちにあるから、そのまま今の家に住んでね」
「ごめんな。お父さん夜勤ばっかりで家を空けることも多いと思うけど、もう少しの間だけ我慢してくれ」
しかも、所々に含みのある言い方だった。
私は、通い慣れた高校があるから今の家に住むのだろうか。しばらくの単身赴任だというなら、引っ越しの選択肢はないからそんなことまで言わなくていいのに。
それに、もう少しの間ってどういう意味? お父さんは仕事を辞めるつもりがないのに、まるで私の我慢する期限が決まっているみたいだ。
「……本当に、それだけ?」
青い糸がゆらりと揺れて、私は堪らず口にしていた。
本当に二人の仲には問題がなくて、仕事の都合でしばらく別居するだけなら返事は即答してくれるはず。そんな微細な可能性を心に二人の顔を見やれば……案の定、黙ったままだった。
「もう、いいよ。私、ぜんぶ知ってるから」
これが、不幸の青い糸で繋がれた人同士の結末だというのなら、私の選択肢もひとつだった。
ごめんなさい、高坂くん。今までありがとう。
私は、高坂くんにこれ以上不幸な目に遭ってほしくない。
最悪な結末なんて、迎えたくない。
*
それから私は、一度も高坂くんのお見舞いに行くことなく、彼が目を覚ます前に一通だけ手紙を送って――転校した。