「じゃあ、また明日来るからね。今日はしっかり休むのよ」
「うん、わかった。じゃあね、お母さん」
先生からの説明が終わると、お母さんは仕事が残っているらしくすぐに帰ってしまった。まあ、事実として私は軽い打撲と擦り傷程度で、あとは異常がなかったからだろう。あの高いところから転がり落ちてこの程度で済んだ私はかなり幸運だったと、担当してくれた先生が言っていた。私は今日一日病院で過ごし、翌日の午前中に退院することになった。その時にはお父さんも来て、なにやら久しぶりに三人でご飯に行くらしい。私は意外にも早く、日常生活に戻ることができそうだった。
そう。あくまで、私は。
窓のほうに目を向ける。眩しいほどの夕陽が差し込み、室内を淡くオレンジ色で染め上げている。ふっと息を吐いたところで、間仕切りのカーテンが翻った。
「やっ、紫音ちゃん。調子はどう?」
「瞳、さん……」
カーテンの隙間から現れたのは、瞳さんだった。いつものだらしない下着姿でも、ダボっとした部屋着姿でもない。白衣を身にまとい、凛とした表情で佇む外科医の姿だった。
「私は、大丈夫。明日には退院だって」
「そっか、なら良かった。紫音ちゃんは軽傷だったと聞いてたけど、一応ね」
瞳さんはホッとしたように短く笑った。心配してくれたのは嬉しかったけれど、私の気持ちは穏やかではなかった。
「あの、瞳さん。彼は……高坂くんは、大丈夫なの?」
結局、さっきは担当の先生にもお母さんにも訊けなかったこと。二人も、あえてなのか話題には挙げなかった。けれど、やっぱり私は知らないといけない。一緒にいた彼の、私の恋人の状態を。
「本当のことを教えて。お願い」
「命には別状なかったよ」
私の問いに、瞳さんは顔色ひとつ変えずに即答した。その物言いに、私の心臓がヒュッと締め上げられる。
「命には、って……」
「ただし、重症だよ。
「そ、んな……」
「意識はまだ戻ってないけど、頭部への外傷や脳への損傷は見られなかった。だから、じきに目は覚ますと思うよ」
めまいがした。冷や汗が背中を伝い、ドクドクと気持ちの悪い心音が響く。けれど、私は必死に自分を叱咤して瞳さんを見据えた。
「……こ、高坂くんは、絵を描くのが、好きなんだ……だから、また……絵を描ける、よね?」
揺れる視界の端に、ぼんやりと高坂くんの笑顔が浮かんだ。
――じつは俺、絵を描くのが好きなんだ。
声も聞こえる。私に告白してくれた時の、優しい声が響いている。
「……」
瞳さんは答えない。私は業を煮やして叫んだ。
「お願い、答えて!」
「……わからない。ただ、後遺症が残る可能性はある」
「……っっ!」
声にならない苦痛が全身を駆け巡った。ぐわんぐわんと視界が揺れる。
「でも大丈夫。彼の担当は私だから。私生活は頼りないけど、こっちの分野ではわりと名が通ってるんだよ。任せておいて」
瞳さんが、なにか言っている。いつもののんびりとした口調じゃないし、元気付けてくれているのはわかった。けれど、上手く言葉が頭に入ってこない。
「……ごめん、瞳さん。ちょっと休みたい」
それだけ言うと、シーツを被って布団に潜り込んだ。瞳さんがまたなにか言っていたけれど、すべて無視をした。ありがとうのお礼も言えずに、耳をギュッと塞いで丸まった。視覚も聴覚も触覚もすべてシャットアウトしたかった。
すべてが嘘で、これは夢だと思いたかった。
目を覚ませば教室で、なにうたた寝してんだよって高坂くんが笑いかけてきて、紫音の顔に跡ついてるよって美菜にいじってきてほしかった。
でも。
気がつくと、そこは窓のブラインドが締め切られ、蛍光灯のみの光に照らされた病室だった。瞳さんはいなくなっていて、代わりにサイドボードに一枚のメモ用紙が置かれていた。
高坂実くんの病室は、B棟の602号室
すぐにメモ用紙を掴んで、私は病室から飛び出した。