夢を見ていた。
あれは、今よりももっと昔。
小学生に上がる直前の、まだ無邪気な子どもだったころだった。
「わーっ! これ、紫音のランドセル?」
新品のランドセルを担いで、私はくるくると踊っていた。
「そうよー。来月からこれを背負って、小学校に行くんだよー」
はしゃぐ私の様子を見て、お母さんが嬉しそうに微笑む。
「幼稚園からの友達も行くからな。みんなで仲良く楽しく勉強して遊んでくるんだぞー」
大きな手で私の頭を撫でながら、お父さんが目を細める。
「うん! 紫音、とってもたのしみー!」
「わっ、ちょっと紫音~」
「はははっ、紫音は元気だなあ」
お母さんを右手に、お父さんを左手に抱えて、私は大好きな二人の間に挟まる。安心する温もりと匂いが私を優しく包み込んでいく。
いつからだろう。
お父さんやお母さんに甘えなくなったのは。
本当の気持ちを言えずに、二人の顔色や機嫌をうかがうようになったのは。
無意識のうちに糸の意味を知り、その日が来ないことを祈っていたのは。
「ごめんね、紫音。気を遣わせちゃって」
深夜、私が夢見心地に微睡んでいる時に、そっと頬に触れられる。ささやくように、堪えるように謝罪の言葉を口にしてから、お母さんは部屋を出ていく。
「ごめんな、紫音。辛い思いをさせて」
明け方、髪の毛を通して伝わる優しい感触に、私の意識はゆっくりと浮上する。押し殺すような声が近くで聞こえたかと思うと、お父さんは仕事に向かう。
二人の気持ちは、同じだった。
それなのに、すれ違っていた。
なんでだろう。
毎日見ていた青い糸は、二人が仲良く笑っていた時も、無言で朝食を食べていた時も、扉の隙間から見た言い合いをしていた時も、変わらず真っ直ぐに二人の小指を繋いでいた。
ふいに、夢が切り替わる。
昼休みが終わって、一日の中で一番眠い五限の時間。
教科書を読む間延びした先生の声と、チョークが黒板を叩く音が規則的に響いている。
襲い来る睡魔と必死に戦うクラスメイトたちの隙間から、私はひとりの男の子を見つめている。
彼も例外なく眠そうで、時節あくびをしては目元を擦っている。かと思えば、机の中から一冊のノートを取り出して、ぼんやりと眺めている。
なにを見ているんだろう。
心なしか彼の口元は緩み、眠そうだった目には生き生きとした輝きが戻っている。
青い糸が絡まった左手で、彼は夢中になってノートをめくっている。
また、場面が変わる。
ここは、体育館横の階段?
「よう。春見、おはよ」
唐突に声をかけられる。すぐ隣、手の届くところに、私と青い糸で繋がれた彼が座っていた。
おはよ、高坂くん。
どうしてここにいるの?
というか、なんで私がここにいるってわかったの?
私の中で自然と言葉が湧き上がってくる。けれど、そのどれもが声にはならない。パクパクと音にならない息が漏れるばかりだ。
「俺も寝坊しちまってさ。一限の数学、浜センだろ? 今から行っても怒られるだけだから、もうぶっちしようと思って」
秋風が彼の髪を揺らす。大好きな彼の笑顔が私の胸を打つ。
やっぱり好きだなあ。
心地良くて少し苦しい。そんな仄かな恋心が私の中で広がっていく。
「べつに、私は寝坊したんじゃないけど」
けれど、そんな私の気持ちとは関係なく口が動く。素っ気なくて、とても冷たい言い方。
「あれ、そうなのか。じゃあなんでここに?」
「まあ、なんとなく」
違う、私はそんなふうに言いたくない。そんなことは言いたくない。
そう思っても、口は勝手に言葉を発する。そう言うことが、最初から決まっているみたいに。
「そっか。じゃあ一緒になんとなくサボろうぜ」
それでも彼は笑った。まったく気にする様子もなく、柔和な笑みを浮かべていた。
そこで気づく。
これは記憶で、既に過ぎ去った過去なのだということを。
――サボるにしても、ひとりだと寂しいじゃんか。サボり仲間ってことでいいだろ。
高坂くんが笑う。
近づきたいと思う。
けれど、彼との距離は離れていく。
――まあなんでもいいけど、どうせ今から一限出る気もないだろ? じゃあ俺のサボりに付き合ってくれよ。
声が遠のく。背景が、景色が、大好きな人が、白く塗りつぶされていく。
待って。
私の想いは、声にならず零れ落ちる。
――ほら。
差し出された手は、跡形もなく白に溶けていった。
「……っ!」
目を開けると、蛍光灯が見えた。
白く点々とした模様が特徴的な天井に、清潔感溢れるカーテン。介護用の手すりがついたベッドに、お腹の辺りで伏せっているのは、お母さん……?
「ん……? あ、し、紫音っ!」
声をかけようと手を伸ばしたところで、お母さんは跳ね起きた。
「紫音っ! 身体は大丈夫? 痛いところない? 土砂崩れに巻き込まれたって連絡受けて、私急いで仕事切り上げてきて、すごく心配したのよ!」
「うん。ありがとう、お母さん。私は大丈夫」
「そっか……本当に、良かった。待ってて、すぐに先生呼んでくるから」
「あ、ちょっ」
続く私の声は聞こえなかったようで、お母さんはそそくさと病室から出て行った。行きどころを失った声はため息に変わり、伸ばした手は力無く布団の上に落ちた。
ただ。私の声がお母さんに聞こえていたとしても、私はきっとそのあとの言葉を次げなかった。
訊くのが怖かった。
視線を落として、私はぼんやりとお母さんが先生を連れてくるまで待った。
窓の外は、うんざりするほどに晴れていた。