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第32話 泡沫の夢

 夢を見ていた。

 あれは、今よりももっと昔。

 小学生に上がる直前の、まだ無邪気な子どもだったころだった。


「わーっ! これ、紫音のランドセル?」


 新品のランドセルを担いで、私はくるくると踊っていた。


「そうよー。来月からこれを背負って、小学校に行くんだよー」


 はしゃぐ私の様子を見て、お母さんが嬉しそうに微笑む。


「幼稚園からの友達も行くからな。みんなで仲良く楽しく勉強して遊んでくるんだぞー」


 大きな手で私の頭を撫でながら、お父さんが目を細める。


「うん! 紫音、とってもたのしみー!」


「わっ、ちょっと紫音~」


「はははっ、紫音は元気だなあ」


 お母さんを右手に、お父さんを左手に抱えて、私は大好きな二人の間に挟まる。安心する温もりと匂いが私を優しく包み込んでいく。

 いつからだろう。

 お父さんやお母さんに甘えなくなったのは。

 本当の気持ちを言えずに、二人の顔色や機嫌をうかがうようになったのは。

 無意識のうちに糸の意味を知り、その日が来ないことを祈っていたのは。


「ごめんね、紫音。気を遣わせちゃって」


 深夜、私が夢見心地に微睡んでいる時に、そっと頬に触れられる。ささやくように、堪えるように謝罪の言葉を口にしてから、お母さんは部屋を出ていく。


「ごめんな、紫音。辛い思いをさせて」


 明け方、髪の毛を通して伝わる優しい感触に、私の意識はゆっくりと浮上する。押し殺すような声が近くで聞こえたかと思うと、お父さんは仕事に向かう。

 二人の気持ちは、同じだった。

 それなのに、すれ違っていた。

 なんでだろう。

 毎日見ていた青い糸は、二人が仲良く笑っていた時も、無言で朝食を食べていた時も、扉の隙間から見た言い合いをしていた時も、変わらず真っ直ぐに二人の小指を繋いでいた。


 ふいに、夢が切り替わる。

 昼休みが終わって、一日の中で一番眠い五限の時間。

 教科書を読む間延びした先生の声と、チョークが黒板を叩く音が規則的に響いている。

 襲い来る睡魔と必死に戦うクラスメイトたちの隙間から、私はひとりの男の子を見つめている。

 彼も例外なく眠そうで、時節あくびをしては目元を擦っている。かと思えば、机の中から一冊のノートを取り出して、ぼんやりと眺めている。

 なにを見ているんだろう。

 心なしか彼の口元は緩み、眠そうだった目には生き生きとした輝きが戻っている。

 青い糸が絡まった左手で、彼は夢中になってノートをめくっている。


 また、場面が変わる。

 ここは、体育館横の階段?


「よう。春見、おはよ」


 唐突に声をかけられる。すぐ隣、手の届くところに、私と青い糸で繋がれた彼が座っていた。

 おはよ、高坂くん。

 どうしてここにいるの?

 というか、なんで私がここにいるってわかったの?

 私の中で自然と言葉が湧き上がってくる。けれど、そのどれもが声にはならない。パクパクと音にならない息が漏れるばかりだ。


「俺も寝坊しちまってさ。一限の数学、浜センだろ? 今から行っても怒られるだけだから、もうぶっちしようと思って」


 秋風が彼の髪を揺らす。大好きな彼の笑顔が私の胸を打つ。

 やっぱり好きだなあ。

 心地良くて少し苦しい。そんな仄かな恋心が私の中で広がっていく。


「べつに、私は寝坊したんじゃないけど」


 けれど、そんな私の気持ちとは関係なく口が動く。素っ気なくて、とても冷たい言い方。


「あれ、そうなのか。じゃあなんでここに?」


「まあ、なんとなく」


 違う、私はそんなふうに言いたくない。そんなことは言いたくない。

 そう思っても、口は勝手に言葉を発する。そう言うことが、最初から決まっているみたいに。


「そっか。じゃあ一緒になんとなくサボろうぜ」


 それでも彼は笑った。まったく気にする様子もなく、柔和な笑みを浮かべていた。

 そこで気づく。

 これは記憶で、既に過ぎ去った過去なのだということを。


 ――サボるにしても、ひとりだと寂しいじゃんか。サボり仲間ってことでいいだろ。


 高坂くんが笑う。

 近づきたいと思う。

 けれど、彼との距離は離れていく。


 ――まあなんでもいいけど、どうせ今から一限出る気もないだろ? じゃあ俺のサボりに付き合ってくれよ。


 声が遠のく。背景が、景色が、大好きな人が、白く塗りつぶされていく。

 待って。

 私の想いは、声にならず零れ落ちる。


 ――ほら。


 差し出された手は、跡形もなく白に溶けていった。




「……っ!」


 目を開けると、蛍光灯が見えた。

 白く点々とした模様が特徴的な天井に、清潔感溢れるカーテン。介護用の手すりがついたベッドに、お腹の辺りで伏せっているのは、お母さん……?


「ん……? あ、し、紫音っ!」


 声をかけようと手を伸ばしたところで、お母さんは跳ね起きた。


「紫音っ! 身体は大丈夫? 痛いところない? 土砂崩れに巻き込まれたって連絡受けて、私急いで仕事切り上げてきて、すごく心配したのよ!」


「うん。ありがとう、お母さん。私は大丈夫」


「そっか……本当に、良かった。待ってて、すぐに先生呼んでくるから」


「あ、ちょっ」


 続く私の声は聞こえなかったようで、お母さんはそそくさと病室から出て行った。行きどころを失った声はため息に変わり、伸ばした手は力無く布団の上に落ちた。

 ただ。私の声がお母さんに聞こえていたとしても、私はきっとそのあとの言葉を次げなかった。

 訊くのが怖かった。

 視線を落として、私はぼんやりとお母さんが先生を連れてくるまで待った。

 窓の外は、うんざりするほどに晴れていた。

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