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第31話 不幸の青い糸

 幸せな雨夜のひとときから、五日が経った。

 バスを降りると、柔らかな爽風が私の頬を撫でた。久しぶりの快晴は眩しく思わず目を細めると、陽光を横切る一羽の鳥が見えた。


「いやー晴れて良かったな」


 遅れてバスから降りてきた高坂くんも、私と同じように空を仰ぐ。木漏れ日に照らされた彼の顔を見上げると、頬を一筋の汗が伝って落ちていった。たったそれだけでトクンと心臓が大きく跳ねるのは相変わらずだ。


「ほんとに。木曜日は結局雨で行けなかったもんね」


「ああ。それに、親ともう一度話してとりあえずの決着もつけたかったしな」


 あのあと、高坂くんは帰ってから再度両親と話し合いをしたらしい。その場だけでは足りず木曜日までかかったが、ようやく大学で学ぶことは認めてもらえたのだそうだ。


「でもなあ。在学中になにかしらの結果を出せ。どんな結果なら俺が満足するかも考えてみろって、相変わらず頭の固い親父だよ」


「確かに、それは言えてるかも」


 なかなか辛辣な条件に苦笑する。在学中に結果を出すのは映画やドラマみたいだとは思うけど、その見せる結果そのものも自分で決めさせるというのは見たことがない。なんとも難しい要求だ。


「まあいいや。とりあえずは納得してくれたみたいだからな。ノートは破られちまったけど、新しいノートおろしたし、これからまた埋めていくか」


「うん、そうだね!」


 高坂くんの前向きな言葉に嬉しくなる。初夏の太陽みたいな屈託のない彼の表情に私の頬も緩む。すると、いきなり高坂くんはポンと私の頭に手を置いた。


「それとさ、親に没収されてたスマホ返してもらったんだけど、たくさん連絡くれてたんだな。心配させて、返せなくてごめんな」


「え、そんなのぜんぜん大丈夫! そもそも没収されてたなら仕方ないし」


「それでもやっぱり心配かけちまったし、公園でもいろいろ迷惑かけたし。紫音にあんな格好悪いところ見せるつもりなかったんだけどな」


「高坂くん……」


 ポンポンと私の頭を撫でながら、高坂くんは視線を逸らした。ほんとにもう。私は堪えきれずに、彼の両頬を両手で思いっきり挟み込んだ。


「むぐっ!?」


 予想通り、高坂くんは驚いた顔で私を見た。いつもは爽やかで整っている表情が崩れて、私はつい吹き出してしまう。


「ふはっ。面白い顔~。あははっ」


「ひや、らってそれはひおんが」


「だってもなんでもありません。少しは反省してください」


「はんへい?」


 私の手に顔を挟まれたまま、高坂くんは首を傾げる。


「そうだよ。私は迷惑だなんて思ってないし、格好悪いとも思ってないよ。むしろ強がって素っ気なくされたほうが嫌だし心配になるの。高坂くんだって、私の立場だったらそう思わない?」


「ほ、ほれは……」


「それに、ぜんぶ私がしたくてしたんだし謝らないでよ。普通にお礼を言ってくれたほうが私は嬉しいけどな」


 そっと私は手を離した。温かくて快い感触が遠ざかり、少しだけ名残惜しい。


「だから、高坂くんは反省してください」


 さっきまでの彼を見習って、私も顔いっぱいを綻ばせて笑った。言いたかったこと言えて、心はすっきりとしていた。

 それに、たまには高坂くんに教えを説いてもいいよね。

 いつも大事故レベルとか言われながら勉強を教えてもらっているのだから、これは私からのせめてものお返しだ。ありがたく受け取ってほしい。


「ははっ、まったく。紫音の言うとおりだな」


 照れたように高坂くんは首の後ろをかくと、離したばかりの私の左手をとった。


「紫音、ありがとな。そのお礼も兼ねて、不幸の不安とか全部吹き飛ばすくらいいい絵にするからな! ほら行こうぜ」


「うん!」


 小さな寂しさを抱えていた手がまた愛しい温度に包まれる。心地の良い心音を聞きながら、私は大きく頷いた。

 水たまりの多い丘陵公園を、彼と手を繋いで登っていく。太陽の光をキラキラと反射させ、空の青さを映したその模様はまさに天然の鏡のようだった。


「ほら、こっち。そこ大きな水たまりあるから気をつけてな」


 ぐいっと手を引かれる。どきりと心臓が跳ねる。ふわりと彼の匂いに包まれる。ぽかぽかと心が温かくなっていく。

 二回目となる小道に足を踏み入れれば、そこはひんやりと涼しかった。少し早い梅雨時期の湿気と初夏の暑さ、そして熱った身体を冷やすにはこれ以上はなかった。

 本当に、彼を初めて見かけた時は、こんな関係になるなんて思ってもいなかった。

 不幸の青い糸。繋がれた人同士が結ばれると不幸になる、運命じゃない人を表す青い糸。

 その糸は変わらず、今も私と彼を繋いでいる。

 私だけにしか見えない、彼が近くにいると急に視界に現れて私を戸惑わせる、最悪の糸。

 けれど、たまに思う。

 もしこの糸がなければ、きっと私は彼を意識することはなかった。かっこよくて爽やかで、私なんかとは接点も共通点もまるでないクラスメイト。きっと、ただそれだけで終わっていた。良くも悪くも私は彼のことを見ていたから、その人柄を遠目ながら感じていたから、今があるのかもしれない。

 そう思えば、意識するきっかけを作ってくれたこの青い糸も案外悪いものではないのかもしれないとさえ思ってしまう。それに、“結ばれると不幸になる"というのも私の経験則だし、本当はそうなのかわからないのだから。


「ほら、もうちょっとだ」


 愛しい声が、私の鼓膜を震わせる。涼しさのせいか、私の頬の熱さが際立つ。

 この林を抜けた先にある青の光景。大好きな人が描く、私の嫌いな色で染まった風景画は、果たしてどんな絵になるんだろうか。

 今の満たされた気持ちと先に期待する気持ちを確かに感じながら、私はさらに一歩を踏み出して、



「きゃ――っ!?」



 突然、視界が反転した。

 転んだのかと思って手をつこうとするも、手の先は空を切る。


「紫音っ!?」


 轟音に混じって、焦った彼の声が聞こえる。

 必死に伸ばす彼の手が見える。

 無我夢中で掴むと、視界の急転は止まった。

 けれど代わりに、自分の状況がただならない状態にあることを自覚する。


「え……」


 私は、崩れ落ちた斜面に仰向けで寝転がるようにしてぶら下がっていた。足元の先には滑り落ちたばかりの土砂が堆積しており、今もパラパラと音を立てて端が崩れている。

 これ、え、え……?

 混乱する脳内とは裏腹に、現状だけはすぐに理解できた。

 私は、土砂崩れに巻き込まれた。


「は……っ、つうっ、し、紫音……!」


「あっ! こ、高坂くんっ!?」


 声のほうを見ると、苦痛で顔を歪めた高坂くんが必死に私の左手を掴んでいた。摩擦の少ない土砂の上で私が止まっているのは、彼が引っ張ってくれているからで……。


「ま、待ってろ……。今、引き上げて、やっから」


「こ、高坂くん……」


 視線の先で、青い糸がふわりと私と彼の手に絡みつく。触れられないはずなのに、気持ちの悪い感触が肌を刺してくる。

 高坂くんは右手で木の根本を掴み、右の足先も引っ掛けてなんとかぶら下がっている形だ。このままだと、二人とも落ちてしまう。

 私もなんとか、自力で登らないと。

 ここは斜面であって崖じゃない。だったら、なんとか登れるはず。

 そう思って、身体を捻ったのがまずかった。


「あっ!」


「きゃっ!?」


 視界が一回転したかと思うと、私たちは一気に下まで転がり落ちた。

 そこで、私の意識は途絶えた。

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