胸のあたりがひゅっと締め上がった。思わず二、三歩後ずさろうとするも、高坂くんの腕がそうさせてくれなかった。
「今日もそうだけど、紫音ってたまに夜に公園来てるよな。この前、俺が紫音に告白をした日の前日とか。しかも、結構落ち込んだ顔つきで」
高坂くんは私を見据えたまま、肩に置いた手に力を込めた。
「それから、藤村たちと映画を観に行った時も悩んでるみたいで、ほかにもちょくちょく不安げな顔してて、すげえ心配だった」
透き通った黒い瞳が、私を見つめる。
目を離したいのに、まるで縫い止められたかのように逸らすことができない。
「本当は、話してくれるまで待つつもりだった。最近はどこか吹っ切れた感じだったし、大丈夫そうだとも思ってた。でもなんとなく、まだ悩んでるんじゃないかなとも思うんだ」
「そ、それは……」
「ごめん、急にこんなこと言って。でも今じゃないと、訊けないと思ったから。だから、もし良かったら教えてくれよ。俺にも、キザな言葉を言わせてくれ」
降り頻る雨音の中で、彼は小さく笑った。
「なあ、紫音。紫音はずっと、何に悩んできたの?」
それはあまりにも儚げで、切なくて、愛おしくなるような、そんな笑顔だった。
本当に、心の底から心配してくれてるんだと思った。
――紫音ちゃんはひとりじゃない。私はもちろん、紫音ちゃんを支えてくれる人は必ずいるよ。
いつかの、瞳さんが言ってくれた言葉が蘇る。確かに私はひとりじゃなくて、支えようとしてくれる人がいた。
また雨音が強くなる。そのせいか、ふいに視界がぼやけてきた。
「……信じられないような、話だよ?」
「大丈夫。紫音が言うことなんだから、ぜんぶ信じるよ」
「ほんとに、ほんとに変な悩みだよ? そんなわけないだろって、笑っちゃうくらいの悩みだよ?」
「大丈夫。それでも俺は、ぜんぶ聞きたい」
「……聞いちゃったら、別れたくなるかもしれないよ?」
「大丈夫。俺はぜんぶ受け入れるから」
息が頬にかかり、汗と石鹸が入り混じったみたいな匂いが私を包み込んだ。
もう、限界だった。
心の中に滞留していた不安を押し流すような安心感に包まれて、私は高坂くんにしがみついた。
「……わ、私ね、じつは――」
堰を切ったように、私は不幸の青い糸についての一切を高坂くんにぶちまけた。
繋がれている人同士が結ばれると不幸になる、青色の糸が私には見えること。
両親含め、これまで多くの人が不幸な目にあってきたこと。
そしてその糸が、他ならぬ私と高坂くんを繋いでいることも、すべて。
一度話し始めるとそれは止まらなくて、しゃくりあげながら話す私を、高坂くんはずっと抱き締めてくれていた。
何も言わずに、頷きながらただ優しく背中をさすってくれていた。
それでも、不安はあった。
こんな話を信じてくれるだろうか、とか。
ずっと隠されていたことに不信を持たれるんじゃないか、とか。
不幸に見舞われるかもしれないのに、それを黙ったまま付き合った私を軽蔑するんじゃないか、とか。
「ありがとう、紫音。話してくれて」
けれど。ひと通り話し終えたあと、高坂くんは柔らかく笑って私の頭を撫でてくれた。それだけでまた、涙がとめどなく溢れてきた。
「ずっと、辛かったんだな。やっぱさ、紫音はすげーよ」
「ぜ、ぜんぜんすごくなんか、ないよ……。解決策もわかってないのに、高坂くんを不幸な目に遭わせるかもしれないのに、こうして付き合ってるし……。も、もう、やっぱり別れたほうがいいんじゃないかって……」
「ったく」
弱気になる私を、高坂くんはひときわ強く抱きすくめた。
「いいんだよ、このままで。俺はさ、不幸とか悪いことは起きてから考えようってたちだから。不幸っていってもいつ起こるかわからねーし、もしかしたら乗り越えられる不幸かもしれないだろ。今はない未来の不幸のために、今の自分や相手の気持ちから目を背けたくねーよ、俺」
「こう、さか……くん」
「それに言ったよな。ぶっちゃけ俺は、好きな人と一緒にいられるだけで幸せだって。未来の不幸なんて、起きた時考えればいいんだよ。俺は今、紫音のことが好きだ。紫音と一緒にいたい。紫音は、どう?」
問われて、考える。ううん、考えるまでもなかった。私は高坂くんの胸に埋めた顔を離して、彼を見上げた。
「……私も、高坂くんのことが好き。高坂くんと、一緒にいたいよ……っ!」
きっと、今の私は見るに耐えない酷い顔をしていたと思う。
それなのに、高坂くんは変わらない優しい笑顔のまま、そっと顔を近づけてきた。
甘やかで愛しい感触に、心臓の音がどんどんと加速していく。
身体はまったく動かない。時間が止まってしまったかのように、いうことをきかない。きいてくれない。
頭の中もぼーっとしていて、真っ白で、ぜんぜん機能していない。私の心臓は、いったいどこに血液を送っているんだろう。
そうこうしているうちに感触は一度離れ、そしてまた触れる。今度は少し強引で、びくりと肩が震えた。でも決して嫌な感じじゃなくて、私はなされるがままに力を抜き、目を閉じた。
雨音が響いていた。どこか遠くで、車が水たまりを切って走る音も鳴っていた。
それ以外は静かで、ただただ優しい感触と温もりだけがあった。
私はとても幸せだった。
本当に、本当に幸せで。
不幸の気配なんて、これっぽっちもなかった。