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第30話 幸せな雨夜

 胸のあたりがひゅっと締め上がった。思わず二、三歩後ずさろうとするも、高坂くんの腕がそうさせてくれなかった。


「今日もそうだけど、紫音ってたまに夜に公園来てるよな。この前、俺が紫音に告白をした日の前日とか。しかも、結構落ち込んだ顔つきで」


 高坂くんは私を見据えたまま、肩に置いた手に力を込めた。


「それから、藤村たちと映画を観に行った時も悩んでるみたいで、ほかにもちょくちょく不安げな顔してて、すげえ心配だった」


 透き通った黒い瞳が、私を見つめる。

 目を離したいのに、まるで縫い止められたかのように逸らすことができない。


「本当は、話してくれるまで待つつもりだった。最近はどこか吹っ切れた感じだったし、大丈夫そうだとも思ってた。でもなんとなく、まだ悩んでるんじゃないかなとも思うんだ」


「そ、それは……」


「ごめん、急にこんなこと言って。でも今じゃないと、訊けないと思ったから。だから、もし良かったら教えてくれよ。俺にも、キザな言葉を言わせてくれ」


 降り頻る雨音の中で、彼は小さく笑った。


「なあ、紫音。紫音はずっと、何に悩んできたの?」


 それはあまりにも儚げで、切なくて、愛おしくなるような、そんな笑顔だった。

 本当に、心の底から心配してくれてるんだと思った。


 ――紫音ちゃんはひとりじゃない。私はもちろん、紫音ちゃんを支えてくれる人は必ずいるよ。


 いつかの、瞳さんが言ってくれた言葉が蘇る。確かに私はひとりじゃなくて、支えようとしてくれる人がいた。

 また雨音が強くなる。そのせいか、ふいに視界がぼやけてきた。


「……信じられないような、話だよ?」


「大丈夫。紫音が言うことなんだから、ぜんぶ信じるよ」


「ほんとに、ほんとに変な悩みだよ? そんなわけないだろって、笑っちゃうくらいの悩みだよ?」


「大丈夫。それでも俺は、ぜんぶ聞きたい」


「……聞いちゃったら、別れたくなるかもしれないよ?」


「大丈夫。俺はぜんぶ受け入れるから」


 息が頬にかかり、汗と石鹸が入り混じったみたいな匂いが私を包み込んだ。

 もう、限界だった。

 心の中に滞留していた不安を押し流すような安心感に包まれて、私は高坂くんにしがみついた。


「……わ、私ね、じつは――」


 堰を切ったように、私は不幸の青い糸についての一切を高坂くんにぶちまけた。

 繋がれている人同士が結ばれると不幸になる、青色の糸が私には見えること。

 両親含め、これまで多くの人が不幸な目にあってきたこと。

 そしてその糸が、他ならぬ私と高坂くんを繋いでいることも、すべて。

 一度話し始めるとそれは止まらなくて、しゃくりあげながら話す私を、高坂くんはずっと抱き締めてくれていた。

 何も言わずに、頷きながらただ優しく背中をさすってくれていた。

 それでも、不安はあった。

 こんな話を信じてくれるだろうか、とか。

 ずっと隠されていたことに不信を持たれるんじゃないか、とか。

 不幸に見舞われるかもしれないのに、それを黙ったまま付き合った私を軽蔑するんじゃないか、とか。


「ありがとう、紫音。話してくれて」


 けれど。ひと通り話し終えたあと、高坂くんは柔らかく笑って私の頭を撫でてくれた。それだけでまた、涙がとめどなく溢れてきた。


「ずっと、辛かったんだな。やっぱさ、紫音はすげーよ」


「ぜ、ぜんぜんすごくなんか、ないよ……。解決策もわかってないのに、高坂くんを不幸な目に遭わせるかもしれないのに、こうして付き合ってるし……。も、もう、やっぱり別れたほうがいいんじゃないかって……」


「ったく」


 弱気になる私を、高坂くんはひときわ強く抱きすくめた。


「いいんだよ、このままで。俺はさ、不幸とか悪いことは起きてから考えようってたちだから。不幸っていってもいつ起こるかわからねーし、もしかしたら乗り越えられる不幸かもしれないだろ。今はない未来の不幸のために、今の自分や相手の気持ちから目を背けたくねーよ、俺」


「こう、さか……くん」


「それに言ったよな。ぶっちゃけ俺は、好きな人と一緒にいられるだけで幸せだって。未来の不幸なんて、起きた時考えればいいんだよ。俺は今、紫音のことが好きだ。紫音と一緒にいたい。紫音は、どう?」


 問われて、考える。ううん、考えるまでもなかった。私は高坂くんの胸に埋めた顔を離して、彼を見上げた。


「……私も、高坂くんのことが好き。高坂くんと、一緒にいたいよ……っ!」


 きっと、今の私は見るに耐えない酷い顔をしていたと思う。

 それなのに、高坂くんは変わらない優しい笑顔のまま、そっと顔を近づけてきた。

 甘やかで愛しい感触に、心臓の音がどんどんと加速していく。

 身体はまったく動かない。時間が止まってしまったかのように、いうことをきかない。きいてくれない。

 頭の中もぼーっとしていて、真っ白で、ぜんぜん機能していない。私の心臓は、いったいどこに血液を送っているんだろう。

 そうこうしているうちに感触は一度離れ、そしてまた触れる。今度は少し強引で、びくりと肩が震えた。でも決して嫌な感じじゃなくて、私はなされるがままに力を抜き、目を閉じた。

 雨音が響いていた。どこか遠くで、車が水たまりを切って走る音も鳴っていた。

 それ以外は静かで、ただただ優しい感触と温もりだけがあった。

 私はとても幸せだった。

 本当に、本当に幸せで。

 不幸の気配なんて、これっぽっちもなかった。


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