「紫音、こんな時間になにしてんの?」
ポツポツと雨が降り始める中、滴り落ちる汗を手の甲で拭いながら、高坂くんは近づいてきた。ジョギングの途中なのか、かなり息を切らしている。
驚きと緊張で高鳴る胸を押さえながら、私は口を開く。
「私は、その、散歩だけど。高坂くんは?」
「俺は、ジョグ」
素っ気なく言って、彼は目を逸らした。やっぱりどこかおかしい。なんだかイラついてるみたいだし、目も泳いでいて高坂くんらしくない。それに少し顔も青白い気がする。
「あ……」
「高坂くん!?」
その時、ふらりと高坂くんの身体が傾いた。私は慌てて彼に駆け寄り、抱き止める。
「わ、悪い。ちょっと、走り過ぎたかな」
息も絶え絶えに、彼はにへらと口元を歪めた。また見たことのない表情に胸が苦しくなる。
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。雨も降ってきたし、ほら、とりあえず座ろ?」
私は高坂くんの左手を自分の首の後ろに回し、両手で彼の身体を支えながら近くの東屋まで連れて行った。それから持っていたハンカチを濡らして彼の首の後ろに当て、近くの自販機で冷たいスポーツドリンクを買ってきた。
「これ、飲める?」
「ああ、ごめん」
座ると楽になったのか、高坂くんの声は少し落ち着いていた。背もたれに体重を預けたまま、私から受け取ったスポーツドリンクを喉へ流し込む。
「はぁー、生き返った」
「そっか。それなら良かったけど、どうしてそんな……」
「ごめん。ジョギングってのは、うそ」
高坂くんは半分ほどまで飲んだスポーツドリンクを額に当てて自嘲気味に笑う。雨音が急に強くなった。
「親と大喧嘩して、家飛び出してきたんだ。フラッときたのも、反抗して朝から栄養バーしか食ってなかったからだと思う」
「え、大喧嘩って……?」
「……あの頑固親父、俺が紫音と一緒に描き上げてきたノートを破り捨てやがったんだ」
高坂くんは分厚い雲が広がる空に向かって忌々しげに吐き捨てた。予想外の言葉に私は絶句する。
「絵やデザインで飯が食えるか。そんな甘い世界じゃないんだ。今のうちからしっかりと堅実に将来を見据えた進路を目指さないでどうする。そんなんで充実した人生が送れるか。わがままも大概にしろ、だってさ。マジでムカついたから、なにも言わずにそのまま飛び出してきちまった」
ハハハッと乾いた笑い声が聞こえた。そのまま高坂くんは首をもたげると、残ったスポーツドリンクをさらに半分ひと息に飲む。
「マジでムカついた。ムカついたんだけど、心のどこかでもっともだと思ってる自分もいてさ」
「え?」
「頑固親父の言うとおり、俺には絵で食っていけるだけの才能はない。下手だとは思ってないけど、突出してるわけでもないんだ。この道は茨の道で、やり方によっては親父の言うとおり苦労だらけかもしれない」
視線を地面に落として、彼は続ける。
「んなことは、俺が一番よくわかってる。わかってるんだ。だけど、俺はやっぱり諦めたくない」
スポーツドリンクの入ったペットボトルが音を立ててへこむ。高坂くんの手が小さく震えている。
「たとえ茨の道だとわかっていても、俺は進んでみたい。舗装された、レールの敷かれた道は確かに進みやすいかもしれないけど、俺は俺が進みたい道を歩いていきたい。計画性のないわがままかもしれないけど、それでも俺はやりたいんだ」
そこまで言って、彼は言葉を区切った。へこんだペットボトルをじっと見つめている。言うか言わないか、迷っているみたいだった。私は、次の言葉を待った。
「やってみたい、はずなんだけどな。なんかちょっと、自信なくなってて」
しばらくの沈黙のあと、高坂くんはまた、困ったように笑った。
「……っ、大丈夫だよ! 高坂くんなら!」
その笑顔を見た瞬間に、私は思わず叫んでいた。高坂くんは驚いたようにポカンと口を開けている。
「私、高坂くんの絵好きだよ! 高坂くんが一生懸命描いてて、絵を描くのが好きなんだなってすごく真摯に伝わってくるから!」
初めて見た高坂くんの絵、『春心』を思い出す。澄み渡った青空に舞う二枚の桜の花弁。勢いのある色使いは本当に真っ直ぐで、じつに高坂くんらしかった。
「上手とか下手とか、そういう技術的なところも大事かもだけど、私は今の高坂くんの絵に惹かれたの。それこそノートの下書きを見てすぐに『春心』だと気づくくらいには、私の心に残ったの!」
そしてさらに、私をモデルに描いてくれた『希望と初恋』が脳裏に浮かび上がる。夕陽の中で朗らかに笑う私が素敵すぎて、脚色が入りすぎていると訴えたのに「そんなことない」と一蹴された直近の応募作品。ノートの下書きだけで心を打たれたのに、キャンバスに描かれた完成形を見たときは思わず涙が出そうになった。
「私は『春心』に、高坂くんの絵に惹かれた。そして『希望と初恋』を見て、高坂くんと恋人になれた。高坂くんの絵は、とっても素敵だよ。高坂くんは、絵を描くのが好きなんでしょ。だったら、大丈夫だよ。きっとそれが、一番大切なことだから。それに、高坂くんの絵のおかげで、私は……」
私はずっと、好きな人を避けていた。どうしようもなく好きなのに、その気持ちを押し殺して高坂くんのことを避けていた。
不幸の青い糸で繋がれているから。高坂くんに不幸になってほしくないから、避けていた。
その気持ちは今も変わらない。高坂くんには不幸になってほしくない。
けれど、今はそれだけじゃない。
私の気持ちも、高坂くんのことが好きだという気持ちも、大切にしたい。
瞳さんの言うように、私の青春を大切にしたい。
美菜のように、今の自分に素直になりたい。
高坂くんのように、強くなりたい。
「……私は、前を向こうって、思えるようになった」
もちろん、直接は言えないけれど。
それでも今の私があるのは、間違いなく高坂くんのおかげだ。
「だから、高坂くんなら大丈夫。私も一緒に、頑張るから!」
強まる雨音に負けないように、私はしっかりと声を張って言った。意外にも自然と声は出ていて、思った以上に語気が強くなってしまった。でも、構わない。今だけは、私の気持ちの強さも伝えたかった。
対して、高坂くんは呆然としていた。小さく口を開けたまま固まっている。
沈黙が流れる。降り頻る雨ばかりが東屋に響く。
あれ。私、もしかしてまた余計なこと言っちゃったかな。
段々と頭が冷えてきて、高坂くんの反応のなさに不安が募ってきたところで、「ふはっ」と彼が吹き出した。
「ははっ、はははっ!」
「え、え? なんで笑うの?」
「だって、紫音お前、赤い糸の映画見た時は、ひとにキザとか言っておいて、自分も結構キザなこと、言ってるじゃん!」
さっきまで青くしていた表情はどこへやら、けらけらとあけすけに彼は笑い転げる。
「だだだって! 高坂くんが! あまりにも自信なさそうに! するから!」
羞恥が一気に込み上げてきて、顔がカッと熱くなる。本当にもう、なんなのこの男は。ひとがせっかく元気づけてあげようと柄にもないこと言ったのに。
「ふははっ、ご、ごめんごめん」
「もう、いいよべつに。意地悪して笑う元気が出たならそれで」
恥ずかしさと不満から顔を背ける。元気になってくれたのは嬉しいけど、こんなことを言うのはこれっきりにしよう。だってあまりにも、私が損をしすぎてて割に合わな――
「マジで、ありがとな」
なにか、温かい感触が唇にあった。
柔らかくて、優しい感触だった。
目を見張る。高坂くんの顔が、今までで一番近くにあった。
「今度はさ、俺に聞かせてよ、紫音」
「え?」
感触が離れ、代わりにコツンと額を合わせられる。微かな吐息が鼻にかかる。
「紫音はずっと、何に悩んでるの?」