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第28話 君と向き合って

 家に帰ると、私は重力が引き寄せるままにベッドに倒れ込んだ。


「ふぅー……」


 細く長く息を吐く。同時に、昨日からの疲れがどっと押し寄せてきた。つい目を閉じて眠りたくなってくるが、グッと堪えて私はすぐ起き上がる。

 なんと今日、高坂くんはお休みだった。あのあと教室に戻るとほかの友達から散々に心配され、「高坂みたいに体調不良で休みかと思ったよ」と言われたのだ。驚きつつもチラリと彼の席に目をやれば、確かにそこには誰もおらず、いつもより寂しげな雰囲気が漂っていた。

 ただなんとなく、きっと彼は普通の体調不良ではないんだろうなと思った。今日休んでいるのも、ここ数日彼の元気がなかったことと関係しているような気がした。


「メッセージは……変化なし、か」


 スマホでメッセージアプリを起動してみるも、変わらず私の送ったメッセージは未読のままだった。美菜によると、ほかの友達からのメッセージにも既読はついていないらしいので、本当にスマホを見ていないのかもしれない。

 でもそうなると、高坂くんとの連絡のしようがない。一応、体調不良と聞いているので電話をするのはどうかと思うし、あとは高坂くんの中で整理がつくまで待つしかないのだろうか。

 再びベッドに寝転がり息をついたところで、階下からそれは聞こえてきた。


「またそれかよ! もう聞き飽きたって!」


「だったらちゃんとしてよ! いつまでそうしてんの!」


「うるさい! もうお前には関係ないだろ! 口出しするな!」


 階の違う壁越しにでもはっきりとわかる怒鳴り声。私はさらに大きくため息をついた。


「はぁーあ。もう、またか」


 小さく愚痴をこぼしてみる。というか、こぼさずにはいられなかった。

 今月に入ってから、両親の喧嘩の頻度は多くなった。最初のうちは保冷バッグを渡され瞳さんのところに行っていたけれど、最近では唐突に喧嘩が始まっていた。かと思えば、急に静かになったりもするので、気軽にリビングにも行けない。しかも、この前は離婚というワードも出ていたし、もしかしたらそういうことなのだろうか。


「もう……嫌だな」


 両親が離婚ということになれば、私はどうなるのだろう。少しネットで調べたけれど、片親に親権がわたってそっちと暮らすことになるのだろうか。そうなると、高校はどうなるんだろう。元々、お父さんの前の勤め先が近くにあるからと移り住んだ街だ。お母さんの実家は遠く、もしお母さんと一緒に住むとなれば引っ越しは免れない。そうなれば必然的に転校という可能性も出てくる。そんなの、嫌なのに。それになにより、自分のことでいっぱいいっぱいのこの時期に余計な問題を増やさないでほしい。


「あーダメだ」


 頭の中がぐちゃぐちゃだった。これは一度頭を冷やしたほうがいいかもしれない。私は無言で起き上がると、クローゼットから適当なボーダーシャツとベージュのワイドパンツを取り出して手早く着替えた。髪を縛って軽く身支度を整えると、なにも言わずに玄関から外へ出る。

 空は群青色に染まっていた。黄昏時は過ぎ、これから夜の時間が始まろうとしている。風は生温かくどこか湿気を含んでいて、雨の匂いもする。念のため傘を持ってから、私は人の気配が少ない住宅街をトボトボと歩いていく。

 なんだか、私の人生は不幸の青い糸に振り回されてばかりだと思った。両親のことしかり、自分の恋愛しかり。不幸の予兆を感じてどうせどうにもならないと両親の喧嘩は放置し、自分の恋愛も悪い方向へと考えてしまっていた。

 でも、今にして思えば、両親の喧嘩もお父さんが解雇された時からの小さな積み重ねが原因でもあるような気がする。最初はぎこちなくも互いを思いやり仲良くやっていたのに、お母さんが本格的に勤め出し、お父さんの次の勤め先がなかなか決まらなくなったあたりから歪みは溜まり始めた。忙しさや疲れから小さなことでイライラしていて、よく物に当たるようになっていた。その頃から、私もいよいよ距離を置き始めた。

 小さな衝突を繰り返し、言葉を選ぶ余裕もなくなり、聞きたくない罵詈雑言が飛び交うようになった。一応私は気づかないフリをしていたけれど、なにか思うところがあったのか、お母さんは私に瞳さんのところで夜ご飯を食べてくるよう言うようになった。

 そうして今、二人の仲は修復不可能なんじゃないかと思ってしまうような段階まで来ている。私自身、もうどう接していいのかわからない。青い糸が指し示すままに、着実に不幸な未来へと近づいていっている。

 けれど、もしお母さんやお父さんが今もお互いのことを思いやっていたら?

 もし、あの時私が距離を置かずに二人の異変に向き合っていたら?

 もしかすると、こうはならなかったのだろうか。

 コツン、と道端の小石を蹴り上げる。小石は道路の段差で右へ左へ跳ねたあと、ちょうど口を開けていた側溝の穴へと落ちていった。

 気がつけば、いつの間にかいつもの公園に来ていた。ほとんど無意識のうちに向かっていたのだと自覚して、思わず自嘲するように笑う。


「ふーっ……まあ、今は考えたところでどうしようもないか」


 私は誰もいない公園に入り、ブランコに腰掛けた。

 親の喧嘩もそうだけど、今優先すべきは恋人である高坂くんのことだ。丘陵公園に行った日の翌日から元気がなかったのだから、私に関すること以外でなにかあったとすれば帰る途中や帰ったあとになるけど……


「あ……」


 ブランコを軽くこぎながら、ふと思い出した。

 丘陵公園に行く前、ちょうど先週の月曜日に彼が言っていたこと。


 ――昨日帰ったあとにさ、両親に言ったんだ。絵のこととか、そっち関係のことが学べる大学に行きたいこととか。そうしたら、なんていうか、喧嘩になっちまって。


 困ったように笑う彼の顔がチラついた。


 ――でも大丈夫。しっかり時間をかけて説得してみせるから。だから、そう心配すんな。


 頭を撫でられて誤魔化されたけど、そういえばあの時の彼もどこか変だった。あんなふうに笑った彼を見るのは初めてで、「親との喧嘩」というワードにも心が痛んだ。

 私が、高坂くんの絵を褒めて、後押しをしたから。

 私が、デザインとかを学べる大学の話をしたから。

 そんな私との関わりのせいで、もし高坂くんと高坂くんの両親との間に溝ができていたら……。

 そこから、不幸へ発展してしまったら……。


「ははっ……」


 ひとり小さく首を振る。

 我ながら考えすぎだとは思う。進路のことで親とぶつかるなんて高坂くんに限った話じゃない。私たちの年代ではよくあることだ。


「でも、悩みの可能性としてはあるよね……」


 不幸の青い糸とは関係ないとしても、私は彼の力になりたい。

 話を聞くだけでも、そばでどうでもいい話をするだけでも、きっと助けにはなるはずだ。

 あの日、初めて高坂くんからまともに話しかけられ、涙を拭ってくれた日のように、私にもできることがあるはずだ。

 とにかくもう一度、どこかで高坂くんと会って話をしよう。

 そう心に決めて、今日は帰ろうと私はブランコから立ち上がった。


「――え? 紫音?」


 唐突に呼ばれた自分の名前に、驚いて声のほうを見る。


「こ、高坂くん……?」


 すぐ近くにある公園の外縁路。薄暗い街灯の近くで、汗だくになったジャージ姿の高坂くんが立っていた。

 一粒の水滴が顔に当たったのは、そのすぐ後だった。

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