「はぁ……」
翌朝。私の気はとんでもなく重かった。鉛のような足を引きずり、寝不足の目を擦ってどうにか生徒玄関まで辿り着いたころには一日の体力のほとんどを使い果たしていた。
昨日は結局、あれ以降高坂くんから返信はなかった。あんなに訊くまいと思っていたのに、そんなことは構わず「どうしたの?」「なにがあったの?」と連投してしまった。けれど、高坂くんから反応はなく、既読もつかなかった。
やってしまったという罪悪感と、なにがあったんだろうという心配が心の中に混在していた。
「はぁ……」
ため息が止まらない。吐いても吐いても胸の重みは軽くならず、ずっとつっかえている。息苦しくて、頭がぼーっとしてて、肩からかけた鞄のベルトを握ってないと不安が爆発しそうだった。
もしかしたら、これが不幸のきっかけなのかな。
高坂くんへの心配に加えて、もうひとつの懸念。
今は高坂くんが近くにいないから見えないけれど、私と高坂くんを繋いでいるのは不幸の青い糸だ。なにかを誤れば、この出来事をきっかけに不幸へまっしぐらということにもなりかねない。
教室に行ったら、高坂くんとどう接したらいいんだろ。
昨日のことを訊いていいんだろうか。
それとも何事もなかったかのように挨拶をすればいいんだろうか。
あるいは少し距離をおいたほうがいいんだろうか。
私は、どうしたらいいんだろうか。
「はぁ……」
心の重さに加えてなんだかお腹まで痛くなってきたころ、ポンと肩を叩かれた。
「やっ、紫音! おはよー!」
美菜だった。明るくて元気に満ち溢れた笑顔が視界に広がる。部活の朝練終わりなのか、制汗剤の匂いがふわりと香った。
そこで私は、慌てていつもの表情を作った。
「わっと、びっくりしたー。美菜、おはよー」
頑張って笑う。余計な心配はかけたくないから。
けれど、そんな努力も虚しく、美菜は怪訝そうに眉をひそめた。
「紫音、なにかあった?」
「あ、えと」
次の言葉が出てこない。
なんて言おう。
なんでもないよ。大丈夫。なにもないよ。昨日の数学の課題忘れちゃってさ……
「……みなぁ……」
ぐるぐるぐると取り繕う言い回しが頭を巡っていたのに、口をついて出たのは震えた涙声だった。
「え、ええっ!? 紫音!? ど、どうしたの?」
「わ、私……どうしたらいいんだろ……」
「ちょ、ちょっととりあえず! ここだとあれだから! ほら、場所変えよ?」
「うん……」
慌てふためく美菜に手を引かれ、私たちは体育館横の階段まで移動した。そこは偶然にも、高坂くんと初めてまともに話した場所だった。
美菜は周囲を見渡してから、そっと私の隣に腰を下ろした。
「ここなら誰もいないから大丈夫。それで、どうしたの?」
「う、うん……えとね」
私も階段に腰掛け、ぽつぽつと事の顛末を美菜に話した。高坂くんと丘陵公園に行ったこと。その翌日から高坂くんの様子が変だったこと。毎週一緒にしている勉強会やお出かけを今週は断られ、心配になってメッセージ連投してしまったこと。そのメッセージもすべて既読がつかず、嫌われてしまったかもしれないこと。
青い糸や絵のことには触れず、大まかに私は悩みを説明した。そのせいもあって後半には予鈴が鳴ってしまったけれど、美菜は構わずに最後まで聞いてくれた。
「なるほどねー。あの高坂がねー」
すべての話を終えて、美菜は考えるように首を傾げた。
「私、余計なことしちゃったかな……。なんかもう、どうしたらいいかわかんなくて……」
「んーとりあえず聞いた感じだけど、紫音はそこまで深刻にならなくていいよ。べつに間違ったことをしてるわけじゃないし」
「ほ、ほんと?」
「うん。てか、あーたはいつも深刻に捉えすぎ。高坂だってそんくらいで紫音のこと嫌いにならないから」
「う、うん」
美菜は優しい笑顔を浮かべて、私の頭をポンポンと撫でてくれた。それだけで気持ちが少し楽になる。
「ただねー、あのコミュ力おばけの高坂が紫音にそんな心配させるほど余裕ないのは珍しいかもね。わりと本気でなにかに悩んでるんだと思う」
「そ、そうだよね……」
それはなんとなくわかる。好きだったことと青い糸のこともあってよく高坂くんのことは見ていたけれど、ここまであからさまに様子が変だったことはなかった気がする。
でもそうだとするなら、私はどうしたらいいんだろうか。
曲がりなりにも私は高坂くんの恋人だし、高坂くんが悩んでいるならやっぱり力になりたい。このまますれ違って青い糸が示すままに不幸まっしぐらなんて絶対に嫌だ。
昨日に引き続き私が頭を悩ませていると、美菜が顔をのぞきこんできた。
「ふふ」
「え?」
なぜか、美菜の顔には笑顔があった。わけがわからず、私はバカみたいにポカンと口を開ける。
「あ、ごめんね。でも、もう大丈夫かなって思ってさ」
からかっているふうはなく、美菜は優しく言った。それから、視線の先を前のほうへと向ける。
「私もね、昔元彼と似たようなことがあったんだ。最初は心配してたのに何も言ってくれないし構ってくれないしで、段々腹立ってきちゃってさ。しばらく経って会った時に爆発して、大喧嘩しちゃったんだよね。それで別れて、結局それっきり」
美菜はどこか遠くを見ていた。過ぎてしまった過去を懐かしむように、クスリと微笑む。
「でもね、あの時もうちょっと歩み寄れたらなって思う時もあるんだ。そのあと何人かの人と付き合ったけど、男子ってみんな強がりでさ。自分の弱みとか悩みとかコンプレックスみたいなこととか隠そうとするんだよね。それでよく、なんで言ってくれないのって衝突することもあって、あとから考えたらなんでもないことだったりもして。別れ話になっちゃうような喧嘩も、じつは些細なことの積み重ねだったのかなって思う時がたまにあるんだ」
それから美菜は、また私のほうを見た。ポスン、と私の頭に感触があり、そのまま撫でられる。
「だから、高坂がなにも言わずにメッセージもスルーしてるのにそれでもなにかできないかって考えてる紫音を見てたら、ああ大丈夫だろうなって思うの。高坂だって、ちょっと八方美人なところあるけど悪いやつじゃないし」
自分勝手なやつだったらぶん殴ってやるけどね、と美菜はあけすけに笑いながら付け足した。私はいつもみたいに愛想笑いもできずに、ただ一心に彼女の話を聞いていた。
やがて、一限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。それに合わせて、グイーッと伸びをしながら美菜が立ち上がる。
「さぁーて、そろそろ教室に戻りますかぁー。一限ブッチしちゃったねっ」
「なんでそんなに嬉しそうなの」
嬉々として顔を綻ばせる美菜に私はツッコミを入れた。すると美菜はさらに笑みを深めて言う。
「だって、なーんかこういうの青春じゃない?」
眩しい笑顔だった。
私たちがサボった一限目の授業は英語で、とにかくしつこいオバサン教師が担当だ。これからネチネチと怒られるのは目に見えているけれど、美菜はそんなことを一ミリも気にしていなかった。美菜は今を心から楽しんで、大事にしていた。
なんとなく思う。
もし美菜が不幸の青い糸を見ることができたとしても、これまで付き合ってきた人は変わらないだろう。高坂くんと同じように自分の気持ちを大切にして、「今の私は彼と付き合いたい。だから付き合うの!」なんて言って、目の前の青春を謳歌していただろう。
本当に二人は強い。けれど、美菜の見解ではどうやら今の高坂くんは必要以上に強がっているらしい。
「さっ、戻ろ!」
「うん……!」
だったら、私にできることは彼に寄り添い続けることだ。
不幸の青い糸が示す未来にならないように。