「うーん……」
白紙の紙の前で、私は小さく唸る。周囲ではカリカリと黒鉛が擦れる音が響いている。けれど焦らず、私はシャーペンをくるりと一回転させた。
あっ……そうだ! そうだった! こっちはあの公式だ!
私と同じようにクルクルとシャーペンを回していた彼の姿と同時に、その時に教えられた公式が唐突に降ってきた。私は早々にシャーペンを走らせ、真っ白なプリントの空欄を黒く染めていく。そして、
「はーい、やめ。そこまで。後ろから用紙流してー」
数学教師、浜センの野太い声が聞こえた。パタパタとペンを机に転がす音のほか、椅子を引く音や「あー終わった~っ!」と開放感に溢れた声も一緒に響く。「ほら、そこ。まだ喋るな」と注意されるまでがお約束だったりする。
私もプリントを前に流してから、ぐいーっと大きく伸びをした。
「紫音~! 抜き打ちテスト終わったねー! できた?」
「う、うん……。たぶん?」
「えー! すごい! 私なんて最後までいかなかったよー」
つい五分ほど前。教室に入ってきた浜センがプリントの束を小脇に抱えてきた時は教室が慌ただしくなった。急いで教科書を確認する者、直近でやったワークの問題を見直す者、諦めて天を仰ぐ者。
ちなみに私は高坂くんと一緒に勉強した時のノートを見返していた。たくさんの赤ペンに、最後には必ず付けられた花丸が勇気を与えてくれる。そして幸運にも、その時に見ていた問題の類題が出ていたのだ。本当に高坂くん様々だ。
「なんかあれだね、紫音最近頑張ってるよね」
「え? そうかな?」
「そうだよー。私、紫音の前の席だからわかるけど、数学の課題とか以前よりめっちゃ埋まってるし、今回のテストだっていつもなら『全然ダメだった……』って落ち込んでるのにそうじゃないし。これはあれか、校内随一の優秀な彼氏のおかげかな」
「もうー茶化さないでよー。というか勝手に私のプリント見るな~」
「こら、そこ。まだ授業は終わってないぞ! 私語は慎め!」
先生の注意に、そういえばそうだったと私と美菜は急いで教科書に向かった。
でも確かに、高坂くんと一緒に勉強しているからか最近は数学がわかるようになってきている。課題のプリントに向かうのも苦じゃなくなったし、むしろちょっとだけ楽しみになっている自分もいる。
あとで、高坂くんにもできたよーって伝えに行こう。
窓際前方で真剣に黒板に向かっている彼の横顔を見つめながら、私はそんなことを考えていた。
*
しかし結局、高坂くんと話すタイミングもないまま、放課後まで来てしまった。
美菜のほかに数人話せる友達がいる程度の私とは違い、高坂くんはとにかく友達が多い。同じクラスでも半分程度はよく遊ぶレベルの友達みたいだし、しかも他のクラスからも高坂くんを誘いに来ている友達がいるほどだ。以前、社交性の高さも強みだと言っていたが、本当にその通りだと思う。
それに、私と高坂くんが付き合っていることは、同じクラスでは本人以外のほかには美菜と藤村くんしかいない。なので、普段学校でほとんど彼と喋らない私が話しかけにいくと変に目立ってしまいそうというのもある。
ただ、なにより気になるのは……
「実~! 競技場まで行くぞー! おーい、実?」
「……あ、ああ。悪い。なんだっけ?」
「競技場! 今日は記録会前のインターバル練だろ? なんだ、体調でも悪いのか?」
「あーいや、大丈夫。ちょっと先生に呼ばれてっから、悪いけど先行っててくれ」
なんだか、今日は彼の様子が変だ。
授業中は真剣に聞いているみたいだけど、休み時間になると近くに来た友達と話している時以外はぼーっと窓の外を見ていたり、机に突っ伏して寝ていたりする。いつもならせっせと課題をしていたり、自分から友達のところに話しかけに行くのに、どうしたんだろうか。
今だって、誘いにきた部員に先生に呼ばれてると言って断ったのに一向に席を立つ気配がない。ぼんやりと、窓の外を眺めている。
……よしっ。
帰ろうと持ち上げかけていた鞄を、私は再び机の横にかけた。グッと拳を握り、深呼吸をして心を落ち着けてから、私は窓際のほうへと歩いていく。教室の対角線ほどまで伸びていた青い糸が短くなりほとんど見えなくなるような距離まで近づいてから、私は彼に話しかけた。
「ね、ねぇ……!」
「え!?」
緊張のあまり、思ったより声が大きくなってしまった。私も彼も驚いたように目を見開く。
「あ、ご、ごめん。えーと、その」
バクバクと心臓が情けない音を立てる。
いつもは話しかけない場所。いつもなら話しかけないタイミング。誤魔化してしまいたくなる気持ちを抑えて、私は口を開く。
「なんか、今日変だなって思って。もしかして、何かあったのかなって」
「え? あー、あぁ」
高坂くんはどこか気の抜けた返事をした。やっぱり、彼らしくない。
「その、体調悪いとかだったら帰ったほうがいいよ。違うなら、話くらいならぜんぜん聞くし」
背中に感じる視線に逃げ出したくなるけれど、私はグッと堪えた。青い糸も関係ない。ただ純粋に、彼のことが心配だった。
私の言葉にポカンとしていた高坂くんだったけど、やがて口元を小さく緩ませた。
「ありがとう。俺なら、大丈夫だ」
ポン、と私の頭に手が乗せられた。
でもそれはほんの僅かな時間で、それから彼は指定鞄と小さなボストンバッグを担ぎ、足早に教室を出て行ってしまった。
高坂くん……。
再び伸びていく青い糸が、私の心をざわつかせていた。