目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第24話 青色の花畑

 図書館で勉強をした日から三日後の木曜日。

 私たちは六限後のホームルームを終えるや否や、そそくさと教室をあとにした。二人して早足で廊下を駆けて階段を降り生徒玄関を抜けると、ダッシュで少し離れたところにあるバス停に向かい、ちょうど来たバスに乗り込んだところだ。


「はーっ、なんとか間に合ったな」


「はぁ、はぁ……もう、私帰宅部なんだけど」


 後部座席に座り、私はパタパタと首元をあおぐ。こんなに全力で走ったのはいつぶりだろうか。


「まあまあ。久しぶりにいい運動になったろ?」


「それはそう……って、なんか年寄りくさい!」


 昔、お父さんが言っていた言葉を思い出し、反射的にツッコむ。すると、「社会人全員を敵に回すぞー」と高坂くんに笑われた。

 それから今日の授業の話や美菜と藤村くんの話なんかをしていると、間もなく私たちを乗せたバスは山道に差し掛かった。カーブするたびに車が揺れ、隣に座る高坂くんと肩が触れ合う。付き合って一ヶ月経つけれど、やっぱり恥ずかしくて私の心臓は早鐘はやがねを打っていた。


「お、もうそろそろだな」


 私が必死に心を落ち着けていると、窓の外を眺めていた高坂くんが言った。つられて外を見ると、青々と生い茂った樹木が連なる山肌に、僅かに白ずんだ春の青空が視界に広がった。幼いころに何度か家族で紅葉狩りに来たな、と思い出が蘇る。


「ここって確か、丘陵公園があるんだよね」


「お、やっぱ来たことあったか。俺も夏休みとかに部活でたまに来るんだ。坂道とか駆けずり回ってヘトヘトになるんだけどな」


「うわ、キツそう」


 夏の炎天下の中、さっきバス停まで走った時みたいなダッシュを坂道で繰り返す練習を想像して私は顔をしかめた。いつも思うけれど、運動部の人はどうしてあそこまで自分を追い込めるのだろう。私なら絶対に途中でリタイアしているか、疲れ果てて重力のままに坂を転がり落ちている。


「まあ確かにキツいけど速くなるためだしな。それに今日は坂道ダッシュじゃなくて、最高の穴場で絵を描きに来たんだし」


「最高の穴場?」


 私が首を傾げると、高坂くんは楽しげな笑みを浮かべて頷いた。


「ああ。きっと驚くと思う。時期的にそろそろだとは思うんだけど」


「時期? そろそろ?」


「おっと、着いたな。よっしゃ行くぞー」


 私の疑問が氷解しきる前にバスは目的地に到着した。ICカードをタッチして下車すると、ふわりと潮の匂いが鼻腔をくすぐった。


「ここって、海にも近いの?」


「そうなんだよ。反対側は山があるんだけど、こっち側は海のほうに繋がってて、丘陵公園のさらに奥にある展望台からは両方の景色が見えるんだ」


「へぇー!」


 ぜんぜん知らなかった。家族で紅葉狩りに来た時はもっと山間まで入って行ったし、丘陵公園に用事もないので来たことがなかった。そんなに綺麗な景色が見えるならもっと早くに来ておけば良かった。

 私がひとり心中で悔やんでいると、顔に出ていたのか高坂くんは「あとでそっちも行ってみるか?」と言ってくれた。私が夢中で頷くと、なぜか失笑された。

 バスを降りてからは、高坂くんに続いて木製の丸太階段を昇っていく。大きさや幅がまちまちで思わず転びそうになると、高坂くんがすんでで受け止めてくれた。山道を登る運動に加えて、さらに脈拍が速くなったのは言うまでもない。

 そうして丘陵公園の遊歩道を登ること二十分程度。前を歩いていた高坂くんが、「ほら、ここだ」と前方を指差した。


「え?」


 その先を見て、私は思わず呆けた声をあげた。

 なぜなら、彼の指の先にあるのは、鬱蒼とした茂みと獣道みたいな僅かな通路だったから。


「この奥にさ、いい場所があるんだ。小さいころに見つけて、今もたまに来てるんだ」


「えーっと、この奥に行くの?」


「大丈夫大丈夫! そんなに長く続いてないから!」


 本当にそうだろうか。なんだか虫とかが多そうだし暗いし狭いしで、私ひとりだったら絶対に入らないような道だ。堪らず私はもう一度疑念の目を高坂くんに向ける。


「ほんとに?」


「ほんとほんと」


 それでも変わらず明るく言う高坂くん。まあ、彼がそういうならそうなんだろうし、せっかくここまで来たんだからとことん行ってみるのがいいか。


「大丈夫。ほら、行こうぜ!」


「わっ」


 ぐいっと前に引かれた。

 途端に日差しが減り、新緑や潮の香りが濃くなる。日陰に入ったからかいやに涼しく、木漏れ日がちらちらと瞼を刺激して思わず目を細めた。

 そして仄かに感じるのは、左手の温もり。

 男の子らしい力強さと、硬い皮膚の感触。

 トクン、と心臓が嬉しそうに跳ねる。


「意外とこういうとこに入るのも楽しいんだぞ」


 私は手を繋がれてドキドキしている一方で、高坂くんは特に気に留める様子もなく前を進んでいる。声も普通で足取りもしっかりしている。やっぱり高坂くんはずるい人だ。私はこんなに緊張しているのに。


「あ、そこ少し足元へこんでるから気をつけて」


「は、はい」


 声が上擦った。これはもうダメだ。完全に当てられてしまっている。

 引かれる左手に目を向ける。

 固く握られた手の先からは、不幸の青い糸が伸びている。

 そこはずっと変わらない。付き合う前も、付き合ってからも変わらない。

 不幸に見舞われたくないし、不幸に見舞われる高坂くんも見たくない。彼と仲違いとかしたくないし、病気とか怪我とかしたりするのも嫌だ。

 そんな気持ちもずっと変わっていないのに、私たちの関係は刻々と変化していっている。

 去年の今ごろは話したこともないただのクラスメイト。

 その半年後には初めて喋って、今思えばそこから恋に落ちていた。

 それからたまに話すようになって、高二に進級してからも同じクラスになって、それから一ヶ月経った今ではまさかの恋人同士になっている。


「ここ曲がったらあと少しだ。驚くなよ~?」


「えーそんなに期待させちゃって大丈夫なの?」


 笑みが溢れる。楽しい。幸せだ。

 こんな気持ちになるなんて、思ってもいなかった。

 形になっていない辛いことばかりに気を揉んで、私は当たり前のことをすっかり見落としていた。


「着いた!」


 垂れ下がった木の枝を避けて潜ると、視界が開けた。


「わ、あ……っ」


 感嘆の声がもれた。

 最初に目に飛び込んできたのは、あたり一面に広がる青い花畑。SNSの投稿とかで見たことがある。これは確か。


「ここ、ネモフィラの群生地なんだ。そして俺が絵を描こうと思い立った場所でもある」


 誇らしげに高坂くんが教えてくれる。そうだ、ネモフィラだ。私がいつも目にしている不幸の糸と同じ色で、つい流し見してしまう花だ。

 でも不思議と、今は嫌な感じはしなかった。左手に感じるのは不幸の予感じゃなくて、幸せの感触だ。

 その感触にひかれて、私は一歩ずつ花畑に近づいていく。


「それとほら、ネモフィラの向こうに見えるか?」


「わっ、海だ」


 ネモフィラに気を取られて気づかなかったが、ここは高台だ。陽の光を反射してキラキラと光った海面を臨むことができ、遥か彼方、白から茜色へと変わりかけている空との境界線まではっきりと見える。

 丸太で囲われた手すりの近くまで歩いて行き、私たちは歩みを止めた。


「どう? 気に入ってくれた?」


 ネモフィラと海を臨める高台の花畑。

 ここが、高坂くんが絵を描こうと思い立った始まりの場所。

 私の苦手な青で溢れていて、私の好きな人が連れてきてくれた「最高の穴場」。


「うん。とっても気に入った!」


 堪らず、私は彼に笑いかけた。

 嘘偽りのない、正直な気持ちだった。

 私は青く開けたこの場所を、好きになっていた。


「よっしゃ! じゃあ早速、絵の下書きを描きたいんだけど」


「え~もう?」


「放課後だから時間があんまりないの。今週の土日は記録会があって無理だけど、ほら来週とかさ。また何度も来るから、な?」


「はーい」


 楽しく笑い合いながら、私は彼の指定するポーズをしていく。

 彼の言うように、きっとまた何度も来ることになるだろう。コンクールに出す絵が完成するまで、公園の時みたいに、何度も。


 けれど。

 この時の約束は、結局果たされなかった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?