翌日の月曜日。私と高坂くんはいつも通り図書館の奥にある自習スペースで勉強をしていた。
「紫音、ここの途中式間違ってるぞ」
「あれ、ほんとだ。また符号が逆になってる」
指摘されたところを消しゴムで消し、正しい答えを書く。高坂くんにもう一度見せると、「大正解」と花丸をもらえた。やった。
「紫音って意外と物覚えいいよな。あんなに壊滅的だった数学が、今や大事故レベルまできてるし」
「それでも大事故レベルですか……」
上げて落とされ、私は苦笑する。
まあ否定はできない。未だに小テストは赤点だし、この前あった復習テストにいたってはちょっと誰にも言えない点数を叩き出している。それでも、以前に比べれば断然いいほうだ。
「焦んなくていいよ。まだ受験まで一年以上あるし、数学の点を上げるには根気が必要だからな」
「根気かー」
その頃には私の行きたい大学も決まっているのかな、なんて思って、ふと昨日の瞳さんとのことを思い出した。
……うん。大丈夫。高坂くんと恋人になって頑張るって決めたんだし。
ノートに置いた左手から伸びる青い糸を無視して、私は口を開いた。
「ね、ねぇ。ちょっと聞きた」
「でもマジで俺も、根気よくいかないとだよなあー」
そこでタイミング悪く、私の小さな声に高坂くんの声が重なった。見れば、高坂くんは気づかなかったようで、考え事をしているような面持ちでペンを回している。
高坂くん……?
どこか憂いを帯びているようにも見えるその表情に、私は違和感を覚えた。とりあえず出かかった相談の言葉を飲み込んで、べつの言葉を口にする。
「高坂くん、もしかしてなにかあった?」
「え? あーいや」
ほとんど無意識の独り言だったようで、高坂くんは気まずそうに目を逸らした。訊いちゃいけなかったかなと思いつつも、私は次の言葉を待つ。
やがて、高坂くんはためらいがちに私のほうを見た。
「まあその、昨日帰ったあとにさ、両親に言ったんだ。絵のこととか、そっち関係のことが学べる大学に行きたいこととか。そうしたら、なんていうか、喧嘩になっちまって」
「喧嘩?」
困ったように笑う彼の表情に、胸がちくりと痛む。
「うん、そう。でも大丈夫。しっかり時間をかけて説得してみせるから。だから、そう心配すんな」
笑顔の性質をいつものそれに戻して、高坂くんはポンと私の頭に手を置いた。無理をしているようにも見えるけれど、高坂くんが大丈夫と言っているなら私にできることは見守ることだけだ。
……って、え? あ、頭、撫でられてる!?
「え! ちょっ! あ、頭!」
「頭? なんかついてる?」
ポンポンポンと私の頭を優しく撫で続けながら、反対の手で自分の頭を確認する高坂くん。その顔はいつの間にかニヤけている。
「これ! この手だよ! は、恥ずかしいんだけど!」
「えーいいじゃん。今は誰もいないんだし」
高坂くんは笑みを深めて、さらにわざとらしく撫で回してくる。しかも、髪が乱れないように気を遣ってくれてるのが伝わる撫で方で、これがまたずるい。
どうすればいいかわからず、ついにはなされるがままになっていると、満足したのかようやく手を離してくれた。
「とまあ、俺のことは置いておいて。紫音のほうも、なにか言いたそうな顔してるけど?」
「え?」
予想外の問いかけに、私は呆然とする。
もしかして、さっき口にしかけたことを言っているのだろうか。でも、今の口ぶりだとむしろ私の表情から読み取ったみたいな感じだ。なんてずるい。
少しだけ迷う。相談しようかなと思って口にしたのはいいけど、高坂くんだって進路は自分で決めて自分で行動していて、上手くいかなくても根気強くなんとかしようとしている。なら私も、もう少し自分で考えてみたい。
「んーえとね、夏のコンクールに出す絵って、いつごろから描き始めるのかなって」
結局、私はべつの疑問で誤魔化した。素直に話してくれた高坂くんには申し訳ないけれど、ご愛嬌ということにしてほしい。
高坂くんは私の問いかけに、今度はニヤリと得意げに笑った。
「あーそれね。紫音が構図の練習に付き合ってくれたおかげで、一応俺の中で描きたい絵が決まった」
「えっ、そうなんだ。どんな絵を描くの?」
確か、高坂くんが今年の夏に出す予定のコンクールでは、特にテーマは決まっていなかった。なにを題材にするんだろうとワクワクしていると、彼は人差し指を立ててチッチッチと左右に振る。
「まだ秘密! 行ってからのお楽しみってことで!」
「えー、なにそれ」
ここまで期待させておいてそれはない、と抗議するも、なぜか高坂くんは笑って教えてくれなかった。