ショッピングモールをあとにし、高坂くんの提案でそのまま公園に向かってしばらく絵を描いてから、私たちは解散した。
「春見もモデルだいぶ板についてきたよな。すげー描きやすい」
別れ際にそんなふうに褒められたものだから、さらに私の心は舞い上がった。足取りはいつもより随分と軽い。こんなにも軽いのはいつぶりだろうか。
それに、ここまで私の心が明るくなれたのは、彼のあのひとことのおかげでもある。
「幸せじゃなくてもいい、か」
すっかり日の暮れた住宅街を歩きながら、私はゆっくりと噛み締めるようにつぶやく。
今まで、そんなふうに考えたことがなかった。
好きな人と一緒になるなら、やっぱり幸せになりたい。そんな考えが当たり前だったから、不幸に見舞われることが前提の交際なんて意味がないと思っていた。
けれど、どうやら私の好きな人は幸せじゃなくてもいいから自分の好きだという気持ちを大切にするタイプの人らしい。
「ふふっ」
口元が緩む。外だというのに、きっと今の私はとてもだらしのない顔をしているだろう。
私も、自分の気持ちに素直になっていいのかな。
ぽわぽわと頼りない気持ちの行く先をあれこれ想像しながら、私は勢いよく玄関の扉を開けた。
「――だーかーらー! お前のそういうところが嫌だって言ってんだよっ!」
バシンッとなにかが床に叩きつけられる音とともに、大きな怒号が響き渡った。あっと思う間もなく、心の中に満ちていた仄かな温もりが急速に冷えていく。
「なによ! 私だって家族のために頑張ってるのよ! あなたはなにもしてないじゃない!」
「なにもしてないってなんだ! 今日のゴルフだって次の仕事のために必要なんだよ!」
「じゃあなんでこんなに遅くなるの! そんなに顔を赤くして、いらないものまで買ってきて! これから紫音の大学の学費だってあるのよ! 節約して貯金しようって決めたじゃない!」
「そんなのわかってるよ! だから俺だって頑張ってるんだ! それなのにお前ときたら」
次々と飛び交う罵詈雑言に、私は急いで玄関の扉を閉めた。二人の怒鳴り声がくぐもって聞こえにくくなる。
頭の中は真っ白だった。一分前とは比べ物にならない冷め切った胸に手をあてて、私は浅くなった呼吸を整える。それから、ゆっくりと踵を返した。
群青色の空の下、私は元来た道を歩いていく。
不思議と涙は出てこなかった。昔は二人の喧嘩が始まるたびに必死で嗚咽を我慢していたのに、すっかりと慣れてしまった。
どうしよ。あの調子だと、まだ一時間以上はかかりそうだよね。
ちょうど今はヒートアップしているところみたいだった。そこから二人の気力が続く限り怒鳴り合って、疲れ果てたころに終わるのがいつものパターン。そこに合わせて何事もなかったかのように「ただいまー」と家に入れば、二人ともすぐに取り繕って「おかえり」「遅かったじゃないか」と笑いかけてくれるだろう。
それまで何をしていようか。瞳さんのところにでも行こうか。あーでも、今日は当直だったか。
ぐるぐると考えているうちに、いつの間にか私は先ほどまで高坂くんと一緒にいた公園まで戻ってきていた。すっかり夜の帳が下りており、辺りには誰もいない。
とりあえず公園の外縁を一周しようかと再び歩き始める。
「はあ……」
もう心がぐちゃぐちゃだった。
少し前まであんなにもすっきりしていたのに、またいつもみたく私の心には霧が立ち込めていた。
幸せじゃなくてもいい。そんなことは関係なく、自分の気持ちを大切にする。
私も確かにいいなと思ったはずだったのに、わからなくなっていた。
どっちが正解なんだろう。自分の気持ちとか、素直になるとか、それが大切なのはわかる。未来に起こるかもしれない不幸を懸念して足踏みしているよりも、今を大切にして前に進んでいくのが大事だというのもわかる。
けれど、それで一時的に満たされていたとしても、最終的に私の両親みたく互いを罵り合っていたら意味がないんじゃないだろうか。結局は、あの時に気持ちを伝えなければ……なんて後悔をしてしまうんじゃないだろうか。
「はあーあ……」
何度もため息をもらしつつ、私は心なしか重い足をどうにか動かす。無意識に辺りをうかがいながら、私は舗装された外縁路を歩いていく。そして半周ほどまで来ると、いつものブランコがすぐ近くにあった。
「さっきは、楽しかったのにな……」
ポツリと言葉がもれる。慌てて口元を押さえるけれど、もちろん周囲には誰もいない。
自分の行動に苦笑しながら、私はそっとブランコに座った。思いのほか、そこはひんやりとしていた。
足を振り上げ、そして振り下げる。
私の動きに合わせて、鎖が音を立てて揺れ始める。
昔から、私はブランコが好きだった。自分だけで楽しむことができるし、やり方次第でどんどん速く、高く、楽しくなるから。
久しぶりの感触。よくよく考えたら夜の公園でひとりブランコを漕いでいるというどう考えても危ないやつなんだけど、今の私にはそんなこと関係なかった。
「……」
でも。今はぜんぜん楽しくなかった。すぐに飽きてきて、私は漕ぐのを辞める。久しぶりに跳ぼうかなんて思って、慣性の法則で揺れるブランコの上で立ち上がり、私は勢いよく前方へジャンプした。
「あ」
その時、踏ん張った足がブランコの板から滑り落ちた。夜の空中へ跳び出すはずだった私の身体はバランスを崩し、顔から地面に落ちていく。
やばっ。
咄嗟に目を瞑り、受け身をとろうと手を前に出す。幼い頃に何度も経験した硬い衝撃が手のひらに走り、細かい砂が肌を擦った。どうにか顔面強打は免れたけれど、手や腕がジンジンと痛んだ。
「……ははっ。なにやってんだろ、私」
本当に笑えない。今日のお出かけのために着てきたお気に入りの服も汚れてしまった。暗くてわからないけれど、破けてないといいな。
手や服についた砂を無造作に払い、私は立ち上がった。心身ともに満身創痍の我が身を省みても、やはり涙は出てこなかった。泣きたいくらい悲しいはずなのに。
疲れた。少し早いけど帰ろ。
なんだかどうでもよくなって、私は足早に出口へと向かった。きっとまだ喧嘩しているだろうけど、もう無視してさっさとお風呂に入ってさっさと寝よう。
苛立ちや悲しさや葛藤や悔しさがないまぜになった気持ちを抱えて公園から出ようとしたところで、ふとベンチの上になにかが置かれているのに気がついた。
なんだろ、あれ。
つい夕方までは私と高坂くんの荷物が置かれていて、絵を描いたあとに片付けをして帰ったはずだ。時間はわりと遅かったけど、あのあとに誰か来たんだろうか。
不思議に思って近づき、私は思わず目を見開いた。
「これ……」
手のひらににじむ血がつかないよう気をつけて手にとると、それは一冊のノートだった。見慣れた色に既視感を覚えつつ表紙を見ると、案の定「数学」と書かれていた。
「ふ、ははっ……また、忘れてるじゃん」
笑いと、別のものが今さらになってこみ上げてきた。
なんでだろう。どうしてだろう。
夕方に確認したっけ。あれ、お喋りに夢中だったから覚えてないや。
ノートをギュッと抱き締める。にじまないよう、歪まないよう、必死に気を配りながら胸に抱える。
不幸の青い糸なんて、見えなければ良かったのに。
私はひとり、夜の公園で静かに泣いた。