「え、え……?」
大混乱だった。
声のほうを見ると、そこには紛れもなく私の手の中にあるノートの持ち主、高坂くんが立っていた。朝見た時と変わらない制服姿で、学校の指定鞄を無造作に肩に担ぎ、私と青い糸で繋がれ快活な笑顔を浮かべている。
どうして彼がここにいるのだろうか。部活は? なんで制服姿? ていうか私がノート見ていたのを見られてた? え、ええ? これ、もしかして、嫌われる……?
どんどんと思考がマイナスに落ちていくのを感じながら、私はパクパクと口を開閉させる。けれど、そこから思ったような声は出ない。
「えと、わり。その手に持ってるのって、もしかしなくても俺のノートだったりする?」
「あ、その……ごめんなさい」
やっぱり見られていた。最悪のタイミングだ。
自然に顔は下がり、なにを言われるのだろうと内心びくびくしていると、彼はゆっくりと近づいてきて言った。
「それ、授業中に暇だったから描いてみたんだ」
「え?」
意外なほど優しい口調に、私は驚いて顔を上げる。
「ほら、数学の授業って退屈じゃん? 眠気覚ましになんか絵でも描くか~って思って、描いただけだから。下手だし、恥ずかしいから忘れてくれよ」
彼は怒らず、本当に恥ずかしそうに頬をかいていた。初めて見る一面にドキリと心臓が跳ねる。
ただ、彼の言葉にどう返せばいいかわからず、とりあえず私はノートを差し出した。
「えと、はい、これ……」
「おう、サンキュ」
ひょいとノートが私の手から離れる。なんだか名残惜しくて、私は空いた手のひらを閉じてゆっくりと揉んだ。
「んじゃ俺、行くから。このノートの中身、マジで恥ずかしいから誰にも言うなよ~」
「あ、その……」
言うべきか迷った。
きっと正解は、言わないほうだ。
青い糸が視界で揺れる。ひらひらと、彼の手の動きに合わせて右に左に。
余計なことはしないほうがいい。そう理性が警鐘を鳴らしている。
ただそれでも。
「私は……『春心』、すっごく素敵だと思ったよ」
気づけば、言葉が口からこぼれていた。彼は驚いて目を見開いている。
「駅の絵、見たんだ」
「うん。佳作、だったね。でも私、あの絵の中で一番いいと思ったよ」
「いやいやいやいや、それはマジでないって!」
風切り音が鳴るんじゃないかと思うくらい、高坂くんは手を横に振る。
「最優秀賞とか見た? レベルが違い過ぎるって。あれに比べたら俺の絵なんてただのお絵描き遊びみたいなもんだよ。一緒に飾られてるだけで恥ずかしいのに。てか、クラスメイトだからって気遣わなくていいって」
「ううん、ほんとに一番いいと思った。もちろん、絵の技術は他の絵のほうが上手だったけど、私的には高坂くんの絵に一番惹かれたの。こう、なんていうか、きっと絵を描くことが好きなんだろうなっていうのが伝わる絵だった」
それからも私は、あの時に感じた勢いの良さや細部の描きこみといったところを褒めた。上手く言葉にできずしどろもどろになりながらも、私は良いと思ったところをたくさん上げた。いつの間にか『春心』だけでなく、キャンパスノートに描かれたデッサンについても私は感想を述べていた。
べつに高坂くんと親しくなるつもりはない。
ただ、彼の「恥ずかしい」という言葉はすごく引っかかったのだ。
あんなに素敵な絵を描くのに、それを「恥ずかしい」なんて思ってほしくなかった。
せめて好きな人には、自分が好きなものくらい、好きのままでいてほしかった。
私は彼のことを、好きのままでいてはいけないから。
「だからまあ、その、うん。いろいろ言ったけど、私は素敵な絵だなって思ったから、そんなに恥ずかしがること、ないと思う、よ?」
……とはいえ。
心に浮かんだ感想をそのままに話し終えて、私は急に冷静になった。やばい。喋り過ぎた。ぼっと顔が熱くなる。
「あ、じゃ! わ、私は行くから! 勝手にノート見てごめんね!」
勢いが完全にそがれる前に本当に言いたかった謝罪をもう一度口にして、私は足早に彼の横を通り抜けた。
「待って!」
その時、グイっと肩を掴まれた。ひゅっと胸が締め付けられ、驚きとともに私はおそるおそる振り返る。
「今から、ちょっと時間ある?」
笑顔が消え、いつになく真剣な表情の彼に、私はほとんど無意識に頷いていた。